世の中の右と左そしてうしろ 暗がりで笑う人をみたときや 銀行のATMで現金を取り忘れたときに なんとなく読むブログ
誰にでも触れられたくない過去というものはあるだろうが、そんな意に反して周囲はその過去を褒め称え、絶賛する。そうなってくると、過去を背負った当人はどんどんその過去が疎ましくなり、ろくでもないものとして封印したくなってきてしまう。
Organisationのこのアルバムは、まさにそんな過去の一つ。これがクラフトワークの前身だと知っている人がはたして何人いるのだろうか?
しかし、埋もれていた筈のこのアルバムを引っ張り出したのはクラフトワークファンであり、メンバー当人らは失敗作とみなしているにも関わらず、オリジナル盤が高額な値で出回ったり、いまだにブートが出たりしているのである。
このような現象を逆手にとって、まったくの失敗作を伝説的な作品にまで押し上げる方法というのをいろいろ考えてみたのであるが、結局はクラフトワーク並みの知名度が無ければそれは不可能なんだなぁと思い至り、馬鹿なことを考えていた数分の過去を僕は封印したくなったのであった。
SACDというものがある。これは、スーパーオーディオコンパクトディスクの略なのだが、従来のCDとはまったく別物と考えてもよいメディアだ。
このSACDはアナログレコードが40kHzであるのに対して、100kHzをカバーする再生周波数範囲と可聴帯域内120dB以上のダイナミックレンジを実現しているとのことで、確かに抜群の高音質を誇っている。
しかし、これとアナログレコードを聴き比べたとき、どちらの音が「良いか」というのは単純に好みの問題になってくる。おそらく、ずば抜けて音質のいいSACDと、従来ののアナログレコードを並べ、同じ音源をかけ、10人の人に聞き比べてもらったら評価は真っ二つに分かれると思うのだ。
これは音を好きになる基準が「音質」であるならばSACDを選ぶが、それ以外の質感を求める者はアナログを選ぶということだと思う。
では、音質的には優れていないアナログレコードの方を選んだ人は、どんな理由でそうしたのかといえば、「ただ慣れ親しんだ音であるから」ということであろう。
アナログレコードやカセットテープに慣れ親しんでいた人々の前にCDが登場したときも、アナログ派は存在していた。「アナログの方が音がいい」と言う人もいた。
たしかに、PILの「メタルボックス」なんかはオリジナル12インチ盤の凄まじい音圧を体験してしまったらCD盤なんて買えないだろうし、聞き比べても「アナログ盤の方がかっこいい」という意見が多いことと思われる。
アナログの性質とCDの性質は別物であるし、出る音そのものがやはり違うのだ。
だからアナログ盤の音に慣れ親しんでいた者にとって、SACDの音はまったく違ったものに聞こえると思う。逆に、今のCDしか知らない世代がアナログ盤を聴いて感動する、ということもあり得る。そんなとき、彼らの耳に聞こえているものというのは、自分の意識の中で理想としている音なのだろう。
高音質という概念が人によって違うんじゃないかと気づいたのは、かつてMDが発売されたときだった。
カセットテープを越えるかなりの高音質として売り出されたMDであったが、僕はカセットテープを愛用し続けた。いまだにハイポジションのカセットテープを使ったりしている。
なので、どちらが優れているかという話しになると、僕は答えかねるのだ。
音質がいいのはSACD、たしかに聴いても良い音質だと思う。だが、どちらが好きか? と聞かれたらやはりアナログレコードと答えてしまうわけだ。
僕は別にアナログマニアなわけじゃないし、細かい音響のことは分からないが、SACDの音よりもアナログ盤の音の方がしっくりくる。
案外、僕のような人間が多いせいで新しいオーディオメディアが受け入れられにくくなっているのかもしれないなと思うと、すこしだけ申し訳ない気分になったりもして…。
やはり続けようかと…。
コメント機能は完全に破壊されましたが(というより自分でいろいろいじって壊した)、本文のアップだけはまだできるようですね。
個人でやってるこんな小さなブログなのに、スパムの数は異常という。。
ちゃんと書きます。
音楽レビューばかり書いてるのにも飽きたんで、しばらくは別のコラムでも書いてみます。
例えば、毎朝見かける老人がいつもはジャージなのに今日はスーツだったとか、そういう日常のちょっとしたことを書く場所にしようかな、なんてね。
でも、僕の言うことは嘘かもしれないから気をつけて。
リュウジさんはビトウシャやココバットにもいたけど、ここで聴ける演奏がベストだと思う。
ADKからのソノシートということで、皆大好きなあの音。まさにハードコア。音がとにかくカッコイイ。
ザラザラしたノイジーな感触がいいのかな。センスも最高。
カセットの「LICENSE TO KILL」は聴いたことないが、このバンドの良さはもっと評価されるべきかもしれない。
「脳天ファイラ」という曲名を見て、聴いて、全国のパンクスは何を思っただろう。
この曲名を口に出すたびに、「ところでファイラって何語?」と決まって聞かれるのでここで回答しておこうと思う。
ファイラとはずばり中国語である。ちなみに「壊了」と書く。
脳天がぶっ壊れてお釈迦ですよ~、という意味を短縮すると「脳天ファイラ」なわけ。
脳天ファイラをそのまま中国語にすると「脳袋壊了」で通じます。
Sha-Londonを聴く上での豆知識。
ところで肝心の内容は…、まぁ、カッコイイので聴いてみましょう。
久しぶりにこのブログ書きます。
で、何を取り上げたらいいのか分からなかったのでひとまず王道なパンク・ハードコアで行こうと思いまして…、でまずは第4にしました。
一時期中古屋でよく見たこの盤も、今では高値の花となっていますね。1万越えるとか越えないとか…。で、内容はどうなのかというと、これがかなり良い(私的な好みの問題ですけど)のです。
ちょっと緩めで、マスベ風でもあったりするけどすかすかした感じが心地良く、変なパンクとしてではなくこれこそ正統派として聴かれるべきなのかも、と思うぐらいに重要な一枚です。
B面(正確にはA´面)の最後の曲とかは、よく暇なときにギターで弾いて遊んだりしました。
実はけっこう思い入れあるレコードなのかもしれません…。久々に聴きたいけどテープに落としたやつしかないのでそれで我慢。
ロイド・コールのポジションについては、このデビュー作を聴くとよくわかる。
ギターポップの重要作の一枚でありながら、あまり語られることの無いこの「Rattlesnakes」であるが、ロイド・コールという一人のミュージシャンを肯定するには充分な内容になっている。
美しさや演奏の強度ではなく、存在感としてのロイド・コールこそが最も語られるべき事柄のような気がするのは私だけだろうか?
このデビュー作は最近デラックス・エディションの2枚組でも発売され、DISC2には貴重な音源も収録されており、かなりの好内容。ソロになってからの彼もいいが、一枚選ぶとしたらやはりこの「Rattlesnakes」ということになるだろう。
80年代のギターポップ、という一言で終わらせてしまうにはもったいない一枚だと思うのだが、かといって最高なアルバムだ!! と言うのもなんだか憚られる。
ロイド・コールに触れたことが無ければ、まずはここからだが、これだけがロイド・コールでは無いので、後のソロ作品もぜひ聴いて判断するのがベストだと思う。
ぱっと見、ジャケが非常階段の「蔵六の奇病」と似ている。
どうでもいいけどね。
なにはともあれ、聴き所は4曲目のマイ・ファニー・ヴァレンタインだろう。
リッキー・リー・ジョーンズの一番作りたかったアルバムって多分これだろうな、と思えるくらいに自由奔放に空気が流れている。
眠れない夜にはこれ。もっと眠れなくなるけど、それでも聴いてしまう叙情性は良いものだと思う。
どこか垢抜けきれていない感じのヒリヒリしたうたがまた心地良かったりもする名盤。
ヒップホップのビートがここまでヒップホップ的でなくなることも感動だが、エレクトロニカと言われてもピンとこないぐらいに自然に聴かせる展開が絶妙。
人懐こいメロディがあったと思えば、深く抉るような音も飛び出すし、やはり名盤と言われてきただけのことはある一枚だと思う。
あと、ジャケが怖すぎる。表情の無くなった人間がここまで不気味なものだとは思わなかった。ものすごく不安な気分にさせられるので、怖くて夜は直視できないジャケである。
だが、これを聴くとよく眠れるので、ここ最近は寝る前によく聴いてたりする。ジャケを見ないように気をつけながら…。
68年、ファズの鳴り響くヘヴィなサイケ。
どことなく情緒を感じる。アシッドだけでなく、わりとひりひりしたブルース風の展開もキマッている好盤だが、あまり人気は無いみたいで、すぐさまCDショップから姿を消した一枚。
今でも海外の通販とかでは買えるらしいので、こういうファズの効いたハードロックが好きで好きでたまらないという人にはぜひオススメしたい。
こういうアルバムはまともなレビューとか書けないなぁ…。
地下鉄で歌う=アンダーグラウンド歌姫、という安直かつ偽りの無い図式を実際に完成させたのがこの人だった。オルタナ全盛の当時、この飾らないポップさがそこそこ世間に受け入れられたことを考えると、やはり偉大なSSWの一人として意識してしまう。
Mary Lou Lordは日本での知名度こそ低いものの、その素晴らしいソングライティングのセンスには当時誰もがやられた。最初のミニアルバムでのアコギ一本にやたら可愛い声のアプローチが最高だったのだけれど、このアルバムではより一層ポップにまとめあげられていて、かなりの完成度。
街中でMary Lou Lordが歌う風景のナチュラルさに気をとられ、地下鉄に乗り遅れることは一つの幸福なのかもしれない。
日本のパワーポップ名盤の、五本の指に入るであろうシングル。
このデビューシングルの時点ではまだ横浜銀蝿の妹分的な位置にあったためか、楽曲もTAKUによるロックンロールベースのポップスでノリノリ。当時14歳ということもあって、甘すぎるリアルロリータボイスも衝撃的である。しかも何気に歌は上手い方。
何せ14歳で武道館を満員にしたのはこの岩井小百合だけだし、いまだにパワーポップマニアの間では伝説の存在になっている(と、思うけど私だけ??)。
最近になって突如岩井小百合ボックスなんていうとんでもなく素晴らしいモノが発売され、私は即買ったわけだが、後期の楽曲も良く、「アウトバーンより愛をこめて」とか「ときめきの海」も泣ける。
ボックスには伝説の武道館ライブの映像も収まっているので、岩井小百合ファンならこれは何がなんでも買うべきだと思う。
かつて、このシングルを聞きまくった夏、私はパンクに目覚めた。そのせいで「ドリーム・ドリーム・ドリーム」の振り付けを完コピしてたなんて誰にも言えない。
82年になぜこんなスタイルの音楽をやっていたのかはまったく謎だが、とにかく極上のアシッドフォーク。
この人間離れした、年齢や性別など一切感じさせない歌声は一体何なのだろうか?
色んな意味で怪盤である。
彼にとって、音楽とはなんだったのか? また、サイケデリックムーブメントに10年以上遅れて登場してしまったことをまったく気にしていないその孤立感はいったい何を根拠にしているのか。
謎に包まれたBOBB TRIMBLEであるが、アルバムタイトルの通り、夢の収穫のようなサウンドが全ての解答であるのかもしれない。
ひたすら透明な、向こう側の歌である。
謎に包まれた一枚。
奇怪なニューウェイヴ・パンクだろうか? 日本のゼルダに近い雰囲気もある。
なんか農場の納屋で練習したとか書いてあったけど、もっと都会的な香りもしなくもない。
完全に歴史に埋没してしまっているバンドであるが、そのまま放っておくのももったいない魅力があるので、どこかで彼らの音源に触れることがあったら聴いてみてほしい。
決して絶賛できるようなものでもないし、かといって見過ごすにはもったいない、なんとも不思議な音楽である。
79年ぐらいのパンクの薄暗さを求めているならば、これは一つのテキストとしてもってこいのアイテムであるかもしれない。
SRBのボックスが発売されたが、その六枚よりも激しいのはこの「Strikes Like Lighting」。
ボックスを凌駕するブート盤なんてこれぐらいのものだろう。
オリジナルは私も持ってないので、ダビングしてもらった「CITY SLANG」が途中で切れる音源でしか聞くことができないが、それでもこれは最高である。
SRBの激しさは多分この一枚に全て入っているし、割れた音質とややピッチの違う感じも荒々しくて気持ちがいい。こんなにカッコいいロックアルバムは滅多に無いと思う。
フレッド・スミスのギターがバキバキに鳴るこの音楽を聴いてなんとも思わない、という人とは友達になれそうもない。それぐらい桁違いのロックンロール。
ブログECHOES2007のTKさんも書いていた通り、ロックの本質が見えてきて、ジャンルやら音楽性なんてどうでもよくなる。これは紛れもない、本物のロックだと思う。
また、とげとげしい危険な肌触りがクールでもある。SRBというバンドの不良の香りみたいな雰囲気はさすがデトロイトだなぁ、とは思うんだけど、それ以前にロックって本来こういうものだったよね! という久しぶりの感動みたいなものが襲ってくる演奏が心を躍らせてくれる。
ボックスも出たのだから、このブートもまたCD化されてもいいんじゃないかと思う。
すべてのロック好き、ロックンローラー、ロックマニアは必ず聴くべきバンドである。
衝動を詰め込んだ音。
加速していくことの純粋なかっこよさは不滅である。
選挙ポスターに落書きをして楽しむ小学生のような、無意識でストレートなアナーキズムが充満している大傑作。
考えずに、やれ。ということだったんだと思う。
ひたすら突っ走るボストンの狂気的なファストコア。この時代にこの音!! と驚くもよし、純粋に加速に身を任せるもよしの素晴らしい一枚である。
最近再発されたらしいので、比較的簡単に接することが出来るというのもまたいい。
エリオット・スミスは2003年に、胸に刃物をつきたてて亡くなった。
死に理由を求めるのはよくないことだが、彼の死はショッキングであった。
恐ろしいぐらいに美しいソングライティングのセンスは、エリオット・スミスのアルバムをどれか一枚聴いてみればすぐに体験できる。特にこのアルバムはまとまっており、私は繰り返し何度も聴いた。あれは2000年のことだ。
アビーロードスタジオでの録音ということもあり、ポール・マッカートニーを思わせるメロディも随所に見受けられるが、エリオットのメロウな感覚はやはりオリジナルである。
暗くてドラッギーな世界を描いていたエリオットであるが、それらは全て身近な要素だけで構成されており、自らの内面からずるずると引きずり出される。
近年稀に見る存在感のsswだっただけに、やはりその死は喪失であった。
最近になって、またエリオットの未発表曲集『New Moon』が発売されるらしいが、なんだか聴くのが躊躇われる。
彼もまた、伝説になってしまうのだろうか?
ヒリヒリする感じ。摩擦感。
ゆっくりと沈む空気の中でそれがやってくる。
言葉の出し方が独自のステージからのものなので、従来のロック感覚を求めてしまうと不意打ちを食らう一枚。
ものすごく特異な場所に到達してしまっている。
山本研二のソロは更に深く突き進んでいるので、先に聴くならここからだと思う。
何も言うことはない。
音楽が好きな人が作った音楽がここまで心地良いと、感動を通り越した何かを感じる。
雰囲気やインパクトではなく、落ち着いた安心のようなものを提供するのもまた優れた創作なのかもしれない。
ここには、スウェルマップス時代の奇抜さはなく、ただひたすら真摯なバラード風の作品が並んでいる。若いリスナーには受け入れられないかもしれないが、エピック・サウンドトラックスという一人のミュージシャンの優れた才能は充分に籠もった一枚だと思う。
何か安心して聴ける一枚を探しているなら、このアルバムがオススメである。
久しぶりにハードコアが聴きたくなるときもある。が、そんなときに限って何を聴こうか迷ったりする。
レコード棚からあれこれ引っ張り出して、ジャケを眺めたりした後、結局聴くのはこういった元祖ハードコアだったりするわけだ。
TOUCH & GOの看板バンドでもあるFIXの、これは編集盤。無難な選択として自分がよく聴くのはこれである。
80年代のミシガン州には、こんなバンドがいた。それだけで充分だと思う。
このアルバムの良さは、何も思い浮かばないときになぜか手が伸びて、聴いてみるとスカッとした気分になれるところであろうか。
USコアファンなら皆聴いているであろう一枚だが、あえてこういうアルバムを聴きなおすというのもまた再発見なんかもあっていいかもしれない。
Morning Dewが流れると、暖房もつけていない冬の部屋が、途端に春めいてくる。
暖かみというのは、こういった雰囲気からでも感じることができるのだとわかったとき、BONNIE DOBSONは途端に消滅したりもする。
本作あたりから、バラエティに富んだ味付けが増してきており、これの次にリリースされた「Good Morning Rain」ではフォークロックのポップ性をさらに拡大することに成功している。
フレッド・ニールのEverybody's Talkin' や、ディノ・バレンテのLet's Get Togetherもカバーしているが、自作曲の空気作りが抜群なので、まとまった印象のサイケ・フォークアルバムといった感じである。
本作はいわばまったくヒットしなかったBONNIE DOBSONの再起作というか、ようやく陽の目を見たシンガーソングライターが全力で作ったアルバム、と言えるかもしれない。
Morning Dewはデッドもカバーしていたけれど、やはりオリジナルは純度の高い名曲である。
おれは、あんたのひまつぶしかい?
このときの宮沢正一は、まだフォークシンガーとしての味を持っている。後の人中間で聴けるような闇の世界も、ラビッツのふっ切れたような勢いもほとんど無く、ただただ、日常のスキマから滲み出した茶色い染みを指で擦るかのような渋みと、薄暗い叙情性をオーソドックスなサウンドで聴かせる。
キリスト~、のような薄暗くも美しい世界の構築もここではまだ行われてはいないが、ラストの「音をたてて出ていったものたちへのさいごのうた 」では後の宮沢正一に通じる暗黒面がしっかりと確認できる。宮沢正一という人物の遍歴を知るには重要なレコードの一つであるが、再発の予定は無いという。
この、一聴したところ友部正人をも彷彿とさせるカスレ声のフォークアルバムは、プライベート盤らしいというか、どこかこじんまりとした印象をもってひっそりと横たわっている。
晴耕雨読なスタイルでの臨死体験か。
やわらかいファンタジーの装飾があったとしても、根底ではまったく作為的ではないものの影響が大きく表出している気がする。
マーク・フライの名がアシッド・フォークやドリーミー・サイケ好きの間で騒がれていたのは、何度も色々な形で出されるブートでも分かるとおりだが、正式に再発された今もなお、その良質な音楽が評価され続けているというのは、やはりここにある世界が本当に良いモノだからだろう。
不思議なノスタルジーと心地良い音色を期待して聴くと、意外にバキバキ弾くギターの音のかっこよさに少し戸惑う。だが、そこがまた良い。
このアルバムはある種の理想であると思う。ソロでアルバムを作るならば、誰しもがこんなアルバムを作ってみたいと思うのではないだろうか。
断片的に挟まる曲、DREAMING WITH ALICEの滑らかな感触がこのアルバムをここまでの名作にまで昇華させている気がする。
The Red Crayolaに衝撃を受けた後に本作を聴き、Mayo Thompsonの世界にどっぷりとハマッた。
なんとも不思議によれよれした状態で漂ううたがなにしろ強烈。牧歌的ではあるかもしれないが、不思議と酩酊するような毒がしっかりと混入されている。
ここまで美しくもひねくれた演奏というのはなかなか聴けるものではない。まさに歴史的な名作だと思う。
フォーク的なサウンドではあるけれども、The Red Crayolaでのメイヨとまったく違うというわけでもなく、同じような精神性は確実に存在している。
これが苦手だという人がよくいるけど、たぶんカッチリした演奏とか、しっかりした構成の楽曲じゃないと聴けないタイプの人なんだと思う。聴き手も、もっと自由に聴いた方が楽しめるのに、と思ったりもするのだが…。
現役保母さんシンガーとして二枚のアルバムと三枚のシングルを残して突如消えたチャッピーこと中島世津子さんは、今は何をやっているのだろうか?
とにかく、このファーストで聴ける珠玉のメルヘンポップは絶品である。
谷山浩子にも通じる部分はあるものの、一曲目「fall in love」の痛快なR&Bパワーポップに乗るエコーの効いたチャッピーの声は間違いなくアイドル的であった。
とにかく情報が無いわけだが、音のメルヘン屋のプロデュースで限られた枚数のみプレスされたことだけはたしかである。チャッピーがどんな音楽に触発されていたのか、どんなプロフィールなのか、知っている人はぜひとも教えてほしい。
日本の自主盤やかつてのパンク・ハードコアの名盤がガンガン再発されている昨今、こういった自主ポップにも目を向けてみては、と思うのは私だけだろうか?
そこいらのB級アイドルは絶対にチャッピーのような深みを持ち得ないであろうし、ここまでドリーミーサイケに近づいた歌謡曲というのも珍しいと思う。
未発表曲やデモ音源があれば聴いてみたいが、たぶん無いだろう…。
私の中ではすでに殿堂入りの名盤である。
純粋であることを選択したとき、そこにはある種の速度が生まれる。ひたすら美しい情景を突き詰めていく姿勢は、ものすごく速い。
鈴木一記の声は独特のトーンであり、男性なのか女性なのか、子どもなのか老人なのかも判別できないような超越感がある。人間離れした、とはまさにこういうものを喩える時に使用される言い回しなのかもしれない。
1976年に自主盤としてごく少数流通した本作は、30年の月日を経て突如CD化された。熱烈なファンの青年が鈴木一記の遺族を訪ね、CD化の承諾を得たのだという。
私はこのCDを出した人物を知らないが、彼の姿勢と行動力に感謝の気持ちでいっぱいだ。この作品は多くの人に聴かれるべきものだとは思わないが、熱烈に聴きたいと思っている者が聴けないという負の状況を打開したという意味で、素晴らしいリリースだと思う。
本作の繊細すぎる世界は、まさに天才の遺した芸術品であるかもしれない。ただ、我々がこれに接したとき、我々は純粋にこの世界に打ち震え、心を揺さぶられることこそが、鈴木一記という存在をきちんとしたカタチで伝説化する手段だろう。
故人である天才的人物を伝説化することは決して悪いことではない。ただ、そこに誤解や曲解が混入してしまうと、伝説ではなく虚構の肥大となって、作品に触れたことのない人々の好奇心を間違って刺激してしまう恐れがある。
このCDはごく少数の流通ルートしか通していない。私はそれが逆に正しいやり方だと思う。オープンにし過ぎてこんなに素晴らしい音盤が「商品」として気軽に扱われてしまうのは、なんだかもったいないような、そんな気がするし、やはり聴きたいと思った人が手に入れることができる環境さえあれば、この作品が埋もれてしまう、という最悪の事態だけは防ぐことができるのだ。だから、今回のリリースはまさに理想的な再発のあり方だったと私は思う。ブランコレーベルの方は偉大だ。
鈴木一記の世界は美しく、純粋なものであったまま凍結されている。我々はそれを覗き見て、その素晴らしさに感動しさえすればそれでいいのだ。
余計な詮索や批評などを行ってしまったら、せっかくここまで繊細なガラス細工のように佇んでいる世界を破壊してしまいかねない。だから、ただ耳をすまして、彼のうたを聴けば良いのである。
優しさと儚さ、冷たさと暖かさに満ちた音楽。
私は一曲目ですでに鳥肌が立った。
ホンモノのうたというのは、そういうものだから。
このアルバムの突き抜けたマイペースさ、それまでの実験精神すら放棄したかのようなほのぼの具合はきわめて霊的である。
一曲目、「Parties in the U.S.A.」からいきなりのんびりした情景が飛び出し、隠れた名曲「You Can't Talk to the Dude」なんかも痺れるロック具合。ロックが本来あるべき素の状態をそのままポン、と出している。
名曲も多く、聴けば聴くほどに味の出る好盤であるものの、あまり話題に出ない一枚なのは、ジョナサンリッチマンの本質部分が本当はどこにも無いんじゃないのか、という恐怖が無意識に働くからであって、決してそのロックンロールが虚像だからではない。
ジョナサンの曲が底抜けに「ジョナサン・リッチマンの曲」であらんとするようなインパクトを保持しているように聴こえるのは、しっかりとした芯のような本質が存在しているからであって、一見奔放に放出されているようなサウンドも、しっかりとジョナサンの精神を孕んでいるものだということを認識してから聴きたい。
ここで聴けるジョナサンの歌はあまりにも剥き出しで、時に恐怖すら覚えるが、そうでなくてはロックンロールなんて意味が無いのかもしれない。
ホンモノのレア盤としてよく話題に上がる本作。現物は見たこともないが、あったとしたら信じがたい値段がつくそうな…。
某海外レーベルより半分ブートみたいな感じでちゃっかり再発されていたが、それももうほとんど売り切れらしく、結局また聴きたいけど聴けない、という人が出てきそうな予感がする。
内容はかなり良質なサイケデリック。わりかしドラマティックかつやわらかめな質感。何度聴いても美しい音楽だと思う。
Tomoaki Kamijoという人がミュージシャン気質な人物だったのかどうかは知らないが、かなり完成度の高い楽曲が並んでいる。ボーカルも味があり、翳りのあるメロディがなんとも渋い。ファズのかかったギターも鳴るが、全然うるさくなく、統一された静かな風景がより一層クリアに見える仕掛けには「はっ」とさせられたり。
これものんびり家でごろごろしながら聴きたい一枚である。 が、朝から聴くと、まったりし過ぎて家から出られなくなるので注意。
日本のロック史上にうっすらと輝く名盤。
ルイ・フィリップの一枚目は、あまりにも美しいアコースティックな直感で紡がれている。
後の鋭くなっていくポップセンスもいいが、この時点での限りなく静かで、色彩を封じ込めるような音の発せられ方にやはり惹かれてしまう。
とびきり優雅でありながらも、かつての60年代のポップミュージックから得られたエッセンスはきちんと消化していることがよくわかるこのアルバムは、革命的な衝撃というよりは、アイディアの素晴らしさを感じられる好盤といった趣である。
今の季節、部屋でゆっくり紅茶でも飲みながら聴くには、これほど最適なアルバムもない。
最近になって紙ジャケ再発されたCDには、ボーナスで大人気曲「YOU MARY YOU」が入っているが、個人的にはボーナスは無くても好きな一枚である。
YOU MARY YOUは名曲だけど、あれだけがルイ・フィリップというわけではないので、できればフルで聴いてほしいミュージシャンである。
King of Luxembourgことサイモン・フイッシャー・ターナーの持ち味としては、自分の趣味を全開にして一つの世界観を構築するところがずば抜けて優れている点が挙げられる。
趣味の良い60年代ポップスの再構築。
ただそれだけのことなのかもしれないが、彼の技術とセンスはとてつもなく研ぎ澄まされていた。
このアルバムをはじめて聴いたとき、あまりの密度の濃さと、その恐るべき統一感に感服した。まるで何かのボックスセットでも聴いたような、濃厚で大量の情報がぎっしり詰まった音楽。
彼の才能はしかし、ほとんど日本でのみの評価らしく、海外ではかなりマイナーな扱いになっているというのが信じられない。これほどまでに完成度の高いポップスが一過性のブームとして片付けられてしまうことが最も切なく、悲しいことだ。
と、思っていたら昨年本タイトルを含むelレーベルの作品群が紙ジャケ再発され、値段は高いものの、誰でもすぐに買えるような流通になったことが素晴らしい。
まだ未聴で、こういった音楽をこれから聴いてみようと思っている方には絶好のチャンスであると思う。
また、探せばアナログ盤も安い値段で売られているので、私のように金銭的にキツイという方には根気良く中古盤の棚を漁ることをオススメする。
ヴェルヴェット・クラッシュの前身ということで有名な一枚だが、ヴェルクラよりもいい意味で軽くポップな感触が爽快な編集盤。
これは好きで、なぜか再発盤LP(ジャケ違い)とCDと両方持っているくらい個人的にハマッた一枚だったりする。
サブウェイというレーベルにおいて、まずこのアルバムを思い出すという人も多い筈だ。
キラキラしたポップな音楽。ギターポップの理想型の一つだと思う。
こういったどこか壊れそうな繊細さと、それをおかまいなしに突っ走る無茶さが同居した音楽はとても清々しい。
こういうのを青臭いとか子どもっぽいと思うなら聴かなくたっていい。ただ、こういった音楽を今聴くということで、それがなんらかの前進となるならば、ずっと聴いていたっていいと思う。
廃盤だが掛け値なしの、最高のポップミュージック。
East Village、この前突如再発されました。
もちろん買ったわけですが、オリジナルで聴いたことがなかったのでかなり新鮮に楽しむことができ、そのクオリティの高さにびっくりしました。ただ、ちょっと値段は高かったですが…。
内容について言うと、完璧なセンスなのに、わざと地味な方へ突き進んでいくような、変なおもしろさがあるギターポップです。
ジャケから連想するようなストレートにポップな感覚は求めない方がいいでしょう。ちょっと上級者向けですので、試聴してからご購入をオススメします。
音自体はかなり良いですし、アイディアも豊富でゆったりしたサウンドなのですが、一人でゆっくり聴くのがベストです。あまり批評できそうな内容でもないので、ひとまず聴いてみて欲しい一枚です。
こういう地味路線狙いみたいな音楽は大好きなんですが、なかなか共感してもらえないもので、こういう場でないと好きだということを表明できずに困ってしまいます。
まぁ、一人でこそこそ楽しめば良いんですけどね…。
以前「牛若丸~」について書いたけど、こっちについて書いてなかったので書いてみる。
結局私は「牛若丸~」を貧困のために下北沢ディスクユニオンに売り飛ばしたわけであるが、こちらの方もだれか知人に貸したまま行方不明だったりする。
ただ、死ぬほど聴いたアルバムであるし、思い入れは半端じゃない。
よく言われる「ポップすぎる」「音が歌謡曲みたいだ」などという意見はどうだっていいと思う。北田氏のギターに町蔵の声が乗っかればそれでINUなのだから、不平をもらしてはいけないだろう。
北田昌宏氏のギターは本当にかっこいい。かなり影響を受けたし、ライヴのときはしょっちゅうチューニングを直すという部分も好きだ。あんな弾き方していたらそりゃぁチューニング狂うだろうけど…。
ここには入っていない「ハンバーガー」や「金魚」など、後期は名曲もあっただけに、それらをきちんとしたサウンドでスタジオ録音しておいて欲しかった、という思いは誰しもが抱いたことであろう。
しかし、それでいい。不満を言ってはいけないのだ。
INUというのはそういう音楽であり、バンドだった。
一切の意見を力任せにねじ伏せるのではなく、理解不能なパワーによって無効化させるような、不思議な状態を生成していたと思うし、演奏が始まったらあの尋常じゃないテンションなのだから、我々がどう思おうとINUへ与える影響など皆無なのである。
北田ギターの真似をしたパンクスのギター少年たちは一体どれほどの数いるのだろうか?
自分はもうどっぷりはまって毎日耳コピに勤しんでいたわけであるが、表題曲『メシ喰うな』なんかはどうやったってあんなのコピーできる筈もなく、かなり苦しんだ。まぁ、近い音を出せるまでには成長したが、音感が無いので完コピは今でも不可能だしする必要もない。
ともかく、北田ギターはすごい。そして、そのわりにギター少年たちは彼の存在を知らなかったりして残念である。連続射殺魔の和田氏、スラッヂの片岡氏と並んで、私の中で北田氏は日本のギターヒーローだったりする。ちなみに他にはガセネタの浜野氏、ラリーズの水谷氏など。
本作ではライブのときのような荒々しさや、INU本来の狂気に満ちたグルーヴは無いのであるが、それでもかなり重要な一枚であるといまだに思っている。
町蔵のボーカルはこの後の方が研ぎ澄まされてくるのであるが、それはまた別の日にでも。
遅ればせながら明けましておめでとうございます。
今年もゆっくりやっていこうと思っています。
現在、オークションで1万円以上するという本作も、数年前は下北あたりで中古盤が500~1000円で買えた。今でも、ブックオフあたりなら間違えて安売りされている可能性もありそうだが…。
発売当時、すでにいろいろと評判を聞いていたし1000円でお釣りがくる金額だったために買ってみたけれど、どういうわけか全然聴かずにそのまま奥底へしまいこんでしまっていた。
今回、とある方から本作のことを書いてほしいとリクエストをいただいたので、久しぶりに引っ張り出し、改めてプレイヤーにセットした。
デジタルな音で行われるサイケデリックな演奏。と書くと誤解されそうだが、当初の印象はそんな感じであった。極めて現代的な、2000年代のポップ・プログレかな、なんて軽く考えていたわけだ。だからこそろくに聴かずに実家の奥底へ封印されてしまっていたのだけれども…。
ところが、今回聴き直してみてびっくり。深いし、はじめて聴いたときのデジタルなイメージはまったく無かった。どうやら数年前の自分は耳やアタマがおかしかったようだ。
BOaTというバンドについては、ここに経歴やらメンバーに関してを書くのはやめておく。余計なデータは知らないまま、音に接した方が私のように妙な印象を抱いたまま封印するようなことは回避できるだろうから。
本作の緻密な音の動きは、同時にポップなメロディも抱き込んでおり、サイケデリックに似たゆったりした酩酊感を提供している。
黒、と来たらすぐに緑を。赤、ときたら黄を。という具合に、識別した瞬間に別の回答が投げられるような感覚が延々と続いていて、なおかつリラックスできるような仕組みである。
忙しいのにゆったりできる。一見矛盾しているようだが、心地良いスポーツのあとのような感じを想像してもらえば伝わるかもしれない。この音楽は、未来的でも無ければ、古のサイケデリックでもない。ただひたすら現代的であり続けることの美しさを、演奏として残している大傑作であるのだ。
できればライブを見てみたかったというのはあるが、これ一枚あればもう自分は満足だ。
かつてのフリージャズ、かつてのロックンロール、かつてのサイケ、それらの名演と同じ位置に立てるだけの存在感を今出すには、徹底的に現在の音楽、演奏であることを誇示すれば良いのである。過去の模倣や真似ごとではなく、現代的であることを選択した彼らに、私は拍手を送りたい。
ただ、私は気づくのが遅かったわけだが…。
どこにカテゴライズしていいのか分からないのは、このアルバムでのコウジロウ氏のギターがハードロックテイストだったりするからで、エレキブランというバンドの幅広さを思う存分体験できる大傑作。
前作のトマトのやつもいいんだけど、やっぱり一枚選ぶとしたら本作だろう。
やたらと上手いギター、ポップな感触、少しねじまがった歌詞。
エレキブランは特殊でセンスのいいバンドだったと思う。
Lovely morning and I love youのような、テープにしか入っていない曲もCD化してほしかったものだが、あまりにも突然の解散でびっくりした記憶がある。特に、メジャーの最後の方は方向性も変わってきて、次にどんなアルバムが来るのか気になっていた時期でもあった。あと一枚、アルバムを出して欲しかったというのが正直な気持ちである。
末永く続けていて欲しいバンドというのはすぐになくなってしまう。エレキブランもそんなバンドの一つだった。
ビクターからデビューせずに、ずっと自主でつづけていたら。。
そんなことを考えたファンもたくさんいることだろう。エレキブランの曲を聴くと、やっぱり切なさを感じてしまうし、ギターが弾きたい気分になる。
たまに、中古で安くエレキブランのCDが売られているのを見かけると、持っているのに手にとって眺めてしまったりする。
それは一体何の未練だと言うのだろうか?
有名なレコードほど書く気力を失うものもない。
たとえこんな個人のブログであろうと、読み手を意識してしまうとどうにも気取ってしまい、まともな文章やカッコイイことを書かなくては!! などと意気込んでしまうため、結局くだらない感想文に終わってしまう。
このレコードだって、もう売ってないだろうし、ソフトロックブームの時にはちやほやされたけど、今は中古ですら見かけなくなった。
ブーム当時、かつての名盤ということで、このレコードは大絶賛された。
あの時「アソシエイションすげーって」とか言ってオシャレぶっていたフリッパーズもどきみたいな奴らは、今何を聴いているんだろう? ちなみに私は今でもこれを余裕で聴く。聴いてもすぐ忘れるという能力のおかげで、何万回もこれを楽しめるし、聴くたびに「アソシエイションいいな~」などとにこにこ笑顔だ。
結局、こういうポップで素晴らしいレコードは一度名盤とされてしまうと誰も聴かなくなるのかもしれない。
今の10代でロック好きな若者は果たしてこれを聴くだろうか?
そして、聴いたとして心の底から名盤だと思い、自分でソフトロックを演奏するのだろうか?
私の知っている限り、現在の若者バンドでアソシエイションの影響を受けているものはほとんど無い。プライマル・スクリームやニルヴァーナが好きな若者はいても、アソシエイションやフリーデザインでロックを始める者は極マレなのである。
だからこそ、そういう方向から新しいものが発生してほしいな、とは思うのだが、どうだろう?
言葉がいらない状況とは、ここにあるような饒舌な静謐さのことを指すのだと思う。
無意識的な知覚を刺激していく工程の中で、必要となるであろう要素の断片が静かにゆっくりと浸透してくるような、一種の自己啓発空間を演出することもできる音だ。
Andrew Chalkの「East of the Sun」は、三種類あり、一つはオリジナルカセット、もう一つはそのカセットの完全復刻として最近リリースされたCD、そしてこの画像の少し特殊なカタチでリリースされたCDである。
三種の中で、僕はこのアルバムに最も強い思い入れがある。
まず、ジャケットに惹かれた。この森と空のコントラストの美しさ。思わず手にとって購入したのが7年ほど前のこと。そして、再生した時に聞こえてきたあの期待を遥かに上回る信じられないぐらい繊細でダイナミックな音。
Andrew Chalkを音響・ドローン系のアーティストの一人だなんて僕は思わない。ここにある呼吸のような感触のダイナミズムと、光と闇を交互に編みこんでいくようにスケッチされた風景こそが、彼の世界の本質なんだと思っている。
しみったれた叙情性を確実に破壊せしめる怨念形のパンクである。土着的なデカダンスを前面に押し出したとき、たいていの三流バンドならばただの「湿ったパンク」で終わってしまうところを、あざらしはサウンドの持つ深さと鋭さを身につけることによって簡単にクリアしてしまっている。
中途半端なコンセプトは笑いに転化しかねないという危険性を帯びているが、あざらしには徹底したある種の職人意識というか、しっかりとしたイメージの固定が貫徹されているめがゆえに、純粋にカッコイイバンドとして体験することができるようになっている。
本作では以前に比べてテクニックの向上がみられ、世界観をより一層広げることに成功している。東京は高円寺20000Vで行われたライヴも、パンクバンドとしての勢いを充分に感じさせる見事なステージングであった。
いつかメグ子嬢には和風ドローンノイズサウンドをバックにポエトリー・リーディングスタイルでソロ作品を発表してもらいたい、というのが私の夢だったりする。初期のカレント93の和風版のような感じで。そのときには私が機材かついで北海道まで行ってもいいかな、なんて思っている。それくらい作ってみたい。
今後が楽しみなバンドである。
また、本作「アザラシイズム」は作品として完成度の高いものであるし、数量も限られているので未聴の方はぜひ早めの入手をオススメしたい。
今もっとも再発が望まれているバンド、RAP。
シティロッカー(ドグマ)リリースゆえに再発が困難というのはなんとも歯がゆい感じだ。
一つの提案としては、未発表の録音、ライブ、スタジオ別テイクなどをまとめて、新譜として出してしまうというのもアリだと思うが、やはりファンとしてはオリジナルのリマスタリングという形でCDになってほしいものである。
さて、本作HYSTERIAは、それまでのRAPよりも音質が向上したように聞こえる。それもそのはずで、シングル3枚は8トラックレコーダーでの録音だったのに対し、本作は16トラックでの録音になっているため、音の幅は広がっている。
楽曲もそれまでのRAPのイメージを変えることなく、コンセプチュアルにまとめあげられており、何度聴いても傑作であるとしか言いようのない完成度だと思う。これがラストになってしまったのが本当に惜しい。
サウンド的な面では、RAP特有の曇り空のようなファンタジーに加え、ソリッドなロックの勢いも加速しており、各楽器の音もタイトに聞こえる。理想的なロックアルバムだろう。
個人的にROUGEさんのファンだからかもしれないけど(すげー好き)、ROUGEさんってヴォーカリストとしてものすごく華やかさのある人だと思う。詩も独特の味のあるメッセージを持っているし、注目されて然るべき存在だと思うのだが、まだまだメディアの力が弱くて、RAPがどんなバンドだったか、を広く伝えようという音楽雑誌などが存在していないのが残念で仕方ない。
ただ、ここ最近になって熱心なファンの方々がブログやサイトを立ち上げ、RAPの良さを伝達しようというムーブメントが起きている。私はそういう声を無駄にしてはいけないと思うし、どんな形であろうとそれを行う意志というのは美しいと思う。良い音でRAPの曲を聴いて、今の若い世代にもその凄さを伝えたい、という気持ちって、リスナーという立場において最も純粋なものだしね。痛いほどよく分かる。
最後にROUGEさんに教わったベストなRAPの曲順というのを紹介しておきたい。実際私もこれで聴いてみてすごく良かったので、皆さんにもオススメします。
再発されたらこの順がいいなぁ。
「ロックマガジン」
「アクシデンツ」
「飾り窓」
「空間のあなた」
「迷宮」
「直情径行」
「NOT FOR SALL」
「RAPOUT」
「レジェンド」
「輪廻」
「ランドスケイプ」
「ヒステリア」
「マタニティブルー」
「麻酔/魔睡」
ラストに「麻酔/魔睡」 が来るのがポイントです。できれば歌詞カード見ながら聴いてください。RAPの世界観がよく分かります。
本当に、再発が望ましいバンドなので、私も陰ながら応援させていただきます。
NWWなどの入ったコンピ。
なかなか見かけなくなったレコードですが、個人的に思い出の一枚。ここにある病的な音に、10代の頃は本当に驚き、興奮した。こういうやり方もアリなんだ、こういう音をレコードにしてもいいんだ、という可能性の広がり、もしくはフリーという幅の大きさを思い知った。
ノイズは苦手という人の90パーセントが、きちんと作品と対峙していない、言わば聴かず嫌いな方だというのは私の勝手な妄想だけれど、事実そんな気がする。
優れた作品が何なのか? 最低な作品が何なのか?
それらを判断する能力は、やはり音そのものに触れていかなければ獲得しえないものだと思う。
こういったレコードを聴いて、自分なりの考えを持てたなら、それが賞賛であれ批判であれ、素晴らしい結果なんではないだろうか。
義務教育にぜひ導入すべき一枚。
レアフォーク。ところどころにサイケな香りあり。67年録音、68年発売のカナダの名盤。
いきなりボブ・ディランのBaby Blueのカバーから始まるものの、声が気だるい感じで実にゆったりと聴かせてくれるアレンジになっている。
レナード・コーエンのカバーもさらっとした質感でやってのけるし、レア盤にしておくのはもったいないぐらい聴きやすいサウンドである。
何年か前にCDで再発されていたので、今も探せば見つかると思う。オリジナル盤はまず見たことありませんが、あったとしても高価なのでCDで入手することをオススメしたい。
と、こういう普通のレビューを書いていると「前みたいな批評っぽい感じで書け!」というリクエストなんかもあったりして、最近はブログ更新が遅れまくっている。
現在、音楽レビューはただ上記のようにレコードの紹介をするもの、個人的な感想を書くもの、そして批評するものの三つに分かれていると思う。特にこういう個人のブログでやっているようなディスクレビューというのはたいていが紹介や感想であって、批評は行われていない。
音楽を批評することにはそれなりの意義はあると思うのだが、それを選択して、一円にもならない個人のブログ内で展開していく、という人は見たことがない。
きっと、現代では音楽批評はできないんじゃないかと思う。
それは、個々のリスナーが充分な批評を自己完結的にできてしまうからではなく、ただ単に情報の氾濫と、山のように毎日どこかで発売されている音源の量があまりにも多すぎて、聞き手の認識から批評というものが抜け落ちてしまっているからだと思う。
いま間章のような書き手がいたとしても、音楽出版社はその批評家を無視すると思う。そして、代わりに情報だけを抽出して紹介できるライターを量産していくのだ。
今たとえば、浜崎あゆみの新譜とこのJEREMY DORMOUSEが同時に並んでいるとして、同じ人物が両方のレビューを書かなければならないという状況のとき、浜崎とJEREMYを均一化してまとまりのある文を書くためにはやはり「紹介」というスタイルを読み手も書き手も編集者も選択してしまう。ここでちょっと先鋭的な批評家が両者をガチで論じたところで、読者は読まず、編集者は勝手に文を改竄し、批評という文化は廃退していくのである。
それは何か寂しい気がするが、世間はJEREMY DORMOUSEのレコードにいかなる霊性が在るか? ということよりも、それが何年にどこの国から出て、どんな曲が入っているのか? という方に興味があり、メディアはじゃあその知りたい部分だけをご紹介しますよ~、という姿勢で読者のニーズに合わせたスタイルを作ろうとする。
私は根性が捻じ曲がっているので、そういう姿勢には疑問を持つ。なぜ情報の送受信だけで人々は満足しているのだろうか?
そしてそれは、音楽というものを情報ツールとしか扱えなくなってしまっている若い世代に多い。いまではテープやレコードでなく、MP3のような音楽ファイルで情報を得るような世の中であり、高い金を払ってでかいレコードを買い、じっくりA面B面を儀式のように正座して聞くなんていうやつはごく少数なのである。ただ、そういった儀式的な空気がなければ、音楽の楽しさや奥深さを完全に満喫することなどできないと私は思うのだが、ただ単に私が古い考えの人間なのだろうか?
せっかく聴くなら、とことん深くまでいってみようという、一種の探究心が、現代人には足りていないと、私は思う。
この人が重要なのは、ドラッグの香りを死ぬまで纏っていたから。
そして幸薄そうな佇まいとあの声が、薄暗いホンモノのドラッグ・カルチャーをしっかりと伝えてくれる。
VUもののブートが続々流出していく中、NICOのブートもそろそろ決定版が出されるのではないかと期待しているのだが、どうだろう? 時期的に出そうな感じはあるんですけどね。。
ひとまず、この名盤を聴いてないという人は、家にあるほかのレコードを売り飛ばして買いましょう。
それぐらい良い一枚です。
NICOについては書きたいことが多すぎるので、あえて書きません。
このレコード一枚にどれだけどっぷりはまったことか。。。
罪作りな一枚です。
80年代のロック界において、最後のカルトアイドルになっていた、ザ・スラッヂ。
なぜか音源が出ない。中古レコードは売っていない。活動は20年近くストップ。
そんな状況の中、突然のCD発売がなされた。
まさかここまで音源が残っているとは思わなかったし、CDが出るなんて夢にも思っていなかった。
それがこうして目の前に形になってみると、なんだか不思議な気分だ。
後期(1985-1987年)の未発表ライブ音源がこのCDには80分近く収録されている。
皆が期待しているあのギターの音や、捩れた迫力のボーカル、図太くうねるベース、タイトで通好みのドラムがたっぷり聴けるのである。
ロックであることのオリジナリティは充分すぎるほど発揮していたバンドだけに、まとめて聴くと重度のめまいがする。一般のロックファンが通過してしまっても、そのうちの何人かは確実に立ち止まって耳を傾ける魅力が、ここにある演奏には満ちているのだ。
このアルバムは決して再発ではない。
すべて未発表の音源だけを集めた、いわば新譜なのである。だからこそ、新しい耳で、今の音楽好きが聴いて思う存分に影響を受けて欲しいと思う。
また、当時を思い出して聴くのも再発見に繋がる良いきっかけとなるだろう。ここにある音は20年前の演奏だけれど、時代に取り込まれなかった異分子なのである。だからこそ、ここまで新鮮に響くのだと思う。
まだ流通のルートが限られているようだが、もっと多くの人に届けられれば、確実に意義のあるリリースになると私は思っている。
根底にあるロックのグルーブ感、踊りだしたくなる強烈な演奏。ザ・スラッヂはまだまだ転がり続けているのである。
10年ほど前、異様な高値で売られていたオリジナル盤を、なんとかゲットし、しばらく聴きまくっていたのだが、2年前に突如CD化され、ついそれも買ってしまった。それぐらい好きなアルバム。
ネオアコの名盤といったら必ず挙げられる一枚ですね。きらきらしたポップな楽曲が最高です。かなり純度の高いポップ・ミュージックなので、ネオアコってまず何を聴いたらいいの? と質問されたら私はまずこれを推薦します。今でもたまに聴きますが、やはりオシャレで気持ちのいい音楽ですね。
今日は風邪なのでまともなレビュー書けません。。
JERRY KELLERという、サークルの「TURN DOWN DAY」を書いた人がプロデュースしているので、たしかにサークルっぽい音作り。上質のソフトロックですが、謎につつまれた一枚です。
クオリティの高いポップ・サイケを探しているならオススメだが、まったくどんな活動をしていたのか、どのようなグループだったのかを伺い知る資料が何も残っていないので、バックグラウンドが気になる人にはオススメできません。夜気になって眠れなくなります。
アルバムとして完成度の高いものなので、ハズレを引きたくないときはこれを買ってみてください。
心地良いソフト・ロック・サウンドです。
ピーター・ペレットの声は、ドラッグ漬けのあの感覚を思い起こさせる。だが、それと同時にポップで普遍的なメロディがしっかりと鳴り響き、まるでルー・リードのようなペレットの歌唱も独特の憂いを纏いながら上昇していく。
ペレットは一時ドラッグで再起不能だとか、廃人になっているとか、死亡説までながれていたが、突如復活を遂げ、ライヴを行い、ライヴ盤のリリースも行っている。そこからまたドラッグへ、という話もあるが、ペレットの音楽がドラッグの影響無く鳴り響いていたことが、あの復活の演奏からは感じられる。
「Out There In The Night」の日常風景がゆったりとただ流れていくような美しさや、「Another Girl,Another Planet」のドラッグソングでありながら現実に根付いたロマンティシズムを展開させる手法はあまりにも眩しく、ペレットのソングライティングの良さには脱帽する。
画像はオンリー・ワンズ時代の、ベスト盤で、安価かつ入門には良い内容なのでこれからペレットの世界を覗く人にはオススメしたい。
オンリーワンズを全て聴き終わったら、今度はペレットのライヴ盤を聴いてほしい。魂の美しさがひねくれた性質をも明るく照らしてくれる。
71年、トラッド。
これを正面から聴く気になったのは、キーフのジャケだから、という理由だけで、何の情報もしらないままレジへ持っていった記憶がある。
ジャケ買いというのはよくやったもので、月に一枚はジャケだけで買いものをしていた時期もあった。
そんな中の一枚だが、あらためて聴いてみるとトラッドのツボを押さえた実にクオリティの高い世界がぐるぐる回っている。
屈折した何かを求めていたときには、ここにある優雅な空気は理解できなかったのだが、今になってこういうゆったりとした音を求める気持ちが芽生え始めているような気がする。
ダンドゥ・シャフト。知名度が低いわりに、今検索してみたらなぜか紙ジャケでリイシューされているようなので、これからトラッドを掘り下げたい人たちにとっては良いタイミングなのかもしれない。
この盤の凄さはやっぱりタイガーKさんのパワーにあると思う。
いっけん企画ものっぽい印象を持ちそうだが、中身は不思議なロッキンパンクでおもしろい。
がちがちのハードコアを期待して買わなければ、かなり楽しめる名盤だろう。
ゲストコーラスも何気に豪華面子で、ジャジャ、マサミ、ヒロト、グレイトリッチーズなんかが参加している。愉快な7インチだ。
パステルおばさんは名曲だと思う。
本作ではニッキーではなく、ケイゴが唄っていますが、それがかなりかっこいいです。
一説によるとドラムはケイゴではなく、タツヤが叩いていたという話もありますが、どうなんでしょう?
ニッキーもこのEPにクレジットだけされていますが、正式な加入時期は謎です。
そんなレコードですが、やっぱり直球ロックンロールですごくかっこいいわけです。
ケイゴさんのボーカルはいい雰囲気が出ているし、ニッキー加入前のロード ・ ウォリアーズがバンドとして良いものを持っていたということを実感できます。
これもそんなに高い値段はついておらず、中古屋で500円くらいで売ってますので、見かけたら手にとってほしい一品です。
店によっては5000円くらいするかもしれませんが、安く見つかるとおもうので、諦めずに根気よく探してみてください。
cLOUDDEADのファンならば、本作も聴いておいて損は無い。
自由奔放な、ヒップホップの名を借りたエクスペリメンタル精神と遊び心の詰まった大作であると思う。ゲストも豪華で、Jel, Boom Bip, Sole, Odd Nosdam, Mr Dibbs, Circus, Nobody, Slugといった面子が参加している。
1999年にリリースされた本作だが、最近になって再販しているようなので、気になっていた方はこの機会にぜひ手にとってみてほしい。
アヴァンギャルドの中に無邪気なポップさを持ち込むことが、ヒップホップという形でも可能なのだということを見せ付けた歴史的一枚だと思う。
また、いわゆる現代音楽やノイズ・コラージュからの派生ではなく、純粋にヒップホップで遊ぶことを突き詰めているという姿勢も評価したいと思う。
サウンド自体が持っている魅力も相当なものなので、おもしろい音楽を求めているならばここを通っておくのは正解だろう。
強烈な7インチ!! これは何度も聴いたし、聴くたびに熱くなれる最高のシングル。
スタイリッシュな暴れ方というか、どこかシャープな輪郭があると思う。
MINK OILはやっぱりセンスもいいし、音の完成度も高いハードコアだ。スケーターの少年とかにもぜひぜひ聴いてもらいたい直球疾走コア。
マイナースレットあたりの音が好きなら問答無用でオススメしておきたい一枚。
ここまでかっこいいのに音源が少ないのだけが非常に残念である。
成田弥宇氏は、自らの立ち位置をしっかりと把握し、実直な姿勢でLIBIDOという一つのシステムを動かしていたのだと思う。生きていることのリアリティ、音楽表現ということへの可能性。成田氏の地を引きずるような陰鬱なサウンドは、表面的には暗黒が広がっているように見えるかもしれないが、奥底でしっかりとそれらを纏っているものが確実な「生」のリアリズムだったことが、リビドーの世界を支持する者がいまだに多いということの解答なのかもしれない。
本作「RYU-SA」もまた、リビドーというバンドの美しさを知るには良い一枚である。
例によって、何にも似ていない、独自の音楽がリビドーのサウンドとして息づいている。ファーストよりも演奏、音質ともにまとまりがあるため、作品としてクオリティの高いアルバムである。
ロック、サイケ、ポジパン、プログレ、民族音楽などのエッセンスは多分に吸い込んではいるが、それらを外に出す際に成田弥宇という呪術師のフィルターがかけられている。そして、それは確固たるリビドーのオトなのであり、何かと比較することは明らかに無駄な行為でしかなりえなくなる。
29歳の若さで亡くなった成田氏であるが、いまだにその魅力に触発されて「リビドーのような音」に憧れるバンドは多数存在している。それだけ、あの輝きは絶大だったのだ。
原点。
何も言うことはない。
ここから全てが始まって、それはいまだに動き続けている。
ハードコアパンクの精神が日本で独自に開花したことを証明する、加速した存在の切れ味が鋭すぎるソノシート。
いまだに再発されず、何万もの値がつく本作が伝説になるのは仕方がないとしても、このカッコイイサウンドと初期衝動の興奮が、変なプレミア値のせいで遠くへ行ってしまうのはなんだか悔しい。
タムのギターも、ここでは初期衝動的なパンクの勢いをしっかりと放出しているし、スターリンは聴けるのにチフスが手に入らないという現状は、なんだかタムのファンにとっては切ないような気がする。
このチフス、あとミドルクラス、ハロウィン、変態クラブあたりの音源が正規に発売されるならば、かつてのファンからこれからのパンクスまで、幅広い層にとって嬉しい時代になるのでは? と思うと、夜も眠れないのはとらぬ狸のなんとやら。
でもそんな時代になってほしいものだ。
ニューロックの夜明けシリーズの後半に紙ジャケ再発でリリースされた極上のフォークアルバム。
オリジナルはビクターからの発売だったにも関らず、ほとんど無名という状況であったのだが、再発にて本盤を手にし、その素晴らしい世界に打ち震えたという人は多いと思う。
あまりに優しく、とろけるような怠惰と紙一重の日常が軽やかに歌われる。
「こんないい日は久しぶり」などは休日の昼下がりにのんびりと聴きたい名曲であるし、ここまでの日本のアシッドフォークの名盤が埋もれていたままではもったいないので、最近よく聴いている。
精神的に、しっかりと日常と向き合うのではなく、生活の中で生まれた心象風景を日記のような感覚でうたい上げてしまうところが、武部行正という人の魅力であり、この盤ではそれを最大限に盛り上げるべく、西岡たかしを筆頭とする豪華メンバーがバックアップしている。
最近ではCD盤も見なくなってしまったが、見かけたらぜひ手にとってほしい一枚だ。
一曲目、All along the watchtowerのカバーが最高なバーバラ・キースのセカンドアルバム。
98年に夫と息子がメンバーという凄まじいバンド、Stone Coyotesにて復帰したが、ここにあるような世界ではなくハードロック系の土臭いサウンドで、このアルバムのファンからはあまり評価されていない。Stone Coyotesのサウンドはそれでも、なかなかに味わい深いモノであるので、興味がある方は別物として聴いてみるのもいいかもしれない。
本作は長い間、いわゆるレア盤であり、最近になってCD化され、日本盤も出ているようだ。日本ではAll along the watchtowerのグルーヴ感が人気を呼び、一時はクラブヒットしたぐらい知名度はある。
たまに家でかけると、気分が高揚するので個人的に重宝している一枚。
初めて訪れた街で、なにやら古びた喫茶店を発見し、店内へ入ると唐突にこのような音楽が聞こえてくる瞬間の図式こそが郷愁なのだと思う。
落ち着いたフォークソングを聴きながら、濃いコーヒーを飲むのはしかし、ハードコアパンクで踊り狂いながら酒を浴びるように飲む感覚とどこかで通じていて、その連絡通路の間に座り込んでいるものこそが、我々が求めてやまない本質なのだと思う。
BRIDGET ST.JOHNのハスキーな声には、沈みこみながらその場所一点を見つめ続けるような感覚があり、その視線の先がゆっくりと焼け焦げていくさまを眺めるのが、僕らの休日の過ごし方になっているのかもしれない。
シューゲイザー大名盤。にもかかわらずずっと廃盤だった本作が、最近いきなり再発されていてついつい買ってしまった。
内容はいいですし、ボーナストラックまで入っているので、当時シューゲに夢中だった皆には聴いてほしい再発アルバム。
マイブラ(初期)がノイジーなアノラックサウンド、ライドがソリッドな発展系ニューウェイヴ、スロウダイヴがドリーミーサイケの拡大であったのに対し、このチャプターハウスはマンチェサウンドのシューゲイザー化であったような印象が深い。
ただ、改めて聴いてみると、むしろシューゲイザー的な展開が根本にあったところへ、マンチェの風を送り込んだような仕上がりになっている。
時代を代表する名盤や奇抜な作品ではないけれど、良質な音楽が聴ける一枚として推薦したくなるアルバムだ。
ヴェルヴェット風味と言われればそうかもしれないけれど、VUと同時代にこのサウンドという事実が興味深いのであって、ここにVUと同じ深淵を覗こうと思って大金を支払うのはやめておいた方がいい。
60年代のデトロイトにこのような音楽が! という驚きを感じないという人にはまったくオススメできないけれど、当時のサイケデリックを掘り下げようとしている方には必ず聴いておいて欲しい一枚だと思う。
エコーのかかり具合が何ともいえない美しさで、遠方の駅の改札まで来て切符を落としたことに気づくような絶望もややあり。
ポップなエッセンスもあるので、マニア以外の人にぜひ聴いてもらいたいアルバムである。
オーストラリア人、Paul Adolphusがなぜか京都に住み着き、東山の卑弥呼レコーズ(オクノ修のファーストなどをリリース)から出したというレア過ぎる一枚。この度350枚限定で復刻したが、あまりの情報の少なさに売れ行きは芳しくないようで、いまだ在庫はたくさんある。
内容は美しすぎるアシッドフォークで、日本のフォークシンガーよりもジャパニーズテイストを感じさせてくれる素晴らしいアルバムになっている。書道教室の一室で録音されたらしいが、まさにそんな京都の美しさ、素晴らしさを凝縮したステキな音楽であることは一聴すると良く分かる。
再発盤はジャケや盤も丁寧に復刻されていて、コレクターでなくとも一枚所有したくなる良い仕上がり。太陽+釈迦というジャケデザインのセンスも抜群である。
こういったレコードをコレクターの手だけに収めておくのももったいないので、若いミュージシャン志望の子たちにできるだけ聴いてほしい。音楽の美しさや楽しさ、日本で音楽をやることで見えてくるものを実感できる大名盤だと思う。
Paul Adolphusという人の心象風景は、使い古されたヒッピー文化やジャパニーズ幻想とは違ったピースフル・サイケの形をしている。70年代の京都にこんな音楽があったことを、驚くのも楽しむのも、現在になってこれが再発されたという事実を前提に行うのだから、やはりレア盤の復刻に私個人としては賛成である。
ps.Mrエレクト様、本作のことをお教えいただきありがとうございます。これはすごい。。
USフォーク。ニール・ヤングが一曲参加している。
花が咲くようなゆったりした時間経過を味わいつつも、懐かしい匂いを孕んでいるので飽きることも無くリピートできる。
強烈な個性は無いけれど、フォークの自由で朗らかな雰囲気を堪能するには申し分無い。
極めて情報の少ない一枚だが、こういう音楽をコレクターの手から解放させ、偏見なく聴ける時代がもうすぐ近くまでやってきているような気がする。
妄想だと言われても、それでいい。
螺旋階段は渦を巻いたような形状の階段であるが、一部分だけを切り取れば、それはただの階段にしか見えない。全体を把握して初めてそれが螺旋階段であるという判断に至れるわけだ。
この螺旋階段が後に非常階段へと発展し、音楽性がノイズ・インプロヴィゼーションに変化した背景には、おそらくそれほど大きな転換は無かったのではないかと思える。
ここで聴けるサイケデリックなロックは、既に音楽としての位置づけを拒んでいるかのような見事な跳躍で真っ白な空へ飛び去っていった。
あとに残された群衆の顔には、夏の日焼け痕を思わせるような黒い染みが、いつまでも残った。
真実としての演奏ではなく、演奏が真実であるならば釈明は必要とされない。
螺旋階段の中で立ち止まり、捩れているものが自分だと気づくまでの、一瞬の空白がたまらなく好きだ。
Bread Love And Dreamsの一枚目は、まだ後のサイケな広がりを見せる前で、非常に美しくまとまった素朴な一枚である。
フォーク・サイケの上品な感じは確かにあるかもしれないが、それ以上にシンプルな空気が非常に心地よい。
一般的な評価が集中しているのは3作目であるけれども、本作のブリティッシュ・フォークの鑑のような演奏はやはり個別に賞賛したい。
UKのSSWやフォークが一時再評価されていたが、それらは一過性のものだったようで、今では再び細分化され、なかなか浮上できないような環境になってしまった。
もし、こういった作品を聴いて、なんらかのインスピレーションを得られたなら、個人的にどんどん古い新しいに限らず、開拓していくというのは大切な作業だと思う。
シンプルに作るということは、無駄なものを削除していくというだけではない。
最初から限られたパーツのみで構築し、贅肉を生成させないことによって完成するものもある。
この72年のボストン宅録風フォークミュージックは、そのあまりのナチュラルな完成度に驚きを隠せないぐらいシンプルだ。
うたとアコースティックギター。それだけで世界が作られている。
たとえば、毎日通勤途中に見かけていた老人がある日を境に姿を見せなくなるとする。その場合、まず脳裏に浮かぶのは老人にのっぴきならぬ事態が訪れたのだろうか、ということである。ひょっして亡くなったのか、それとも体調を崩しているのだろうか? そんなことを想ってみても、すぐに老人と毎朝出会っていたという記憶は風化していってしまう。なぜなら、日常のリズムが浸透し、老人のいた風景がその規則性の層に埋没してしまうからだ。
PRENTICE & TUTTLEは、その埋没した日常を掘り起こすような作業を淡々と行う。それは、ときに残酷なことのようにも思える。
もともと、Judy Henskeはジャジーなシンガーとして活躍しており、夫のJerry Yesterはラヴィン・スプーンフルにも在籍していた。
この夫婦が共作で作り出したアルバムが、ど真ん中のサイケデリックであったことがまず驚きである。
この後に別名義で出した2ndではフォーク風になるのだが、ここではJerry Yesterの手腕が大いに発揮され、バラエティに富んだポップな世界が展開されている。
オリジナルはザッパのレーベルから出ていたが、入手困難。最近CD化され、安価で購入できるようになったのが嬉しい。
どこかでこのアルバムがスラップハッピーのようだと書かれていたが、私はそうは思わない。スラップ・ハッピーの捩れたまま生まれてしまったような必然のサイケデリックとは違い、このアルバムは夫婦のほのぼのとした、日常を拡大した際の装飾品としてサイケデリックが選択されているのだ。
だから、表ジャケットがサイケな色をしているのに、裏ジャケットはほのぼのとした普通の写真が使われているという「日常の副産物」を感じさせるイメージが表出している。
かといって、中身は平凡なサウンド、というわけではない。この夫婦の共同作業によって作られた音楽は、カラフルで非常にクオリティの高いポップ・サイケである。ただ、酩酊するだけのトリップ感を誘発するサイケよりも、こういった日常的な遊び心の拡大によって零れ落ちたサイケの方が、休日にゆったりと鑑賞するにはちょうどいい。
ブリティッシュ・サイケ・フォーク。
ジャケは青、赤、水色の三種類があり、どれもオリジナル盤は高くなっている。
ストローブス関係なので、そういう音を想像していたが、内容はソフトサイケ風味のフォークといった感じで、聴きやすくポップ。
なぜかラストの方に入っている、「Mother Mother Mother」がかなりノリのいいサイケ・ロックサウンドなのもおもしろい。普通に聴けるアルバムだと思う。
こういった隠れ名盤がどんどんメディアで紹介されるようになって、それまで独り占め気分を味わっていたコレクターの方にとっては嬉しくないかもしれないが、僕のような一般的な音楽ファンにはとても喜ばしい状況になってきたと言える。
これからも、こういったアルバムをどんどんCD化し、手軽に購入できるような世の中になってほしい。
たしかに、マイナーなレコードのCD化なんて金にならない商売かもしれない。ただ、その結果としてそれなりの喜びや新しい発見を与えることができるのだから、軽視するべきではないと思う。
そろそろブログ復活、って何回言ってるんだろう。。
覗いてくれている皆様、すいません。まじめにやります。
ポップ!!
中古レコード屋で5万ぐらいしていたこの名盤が、昨日近所のCD屋で普通に紙ジャケ復刻されていて即買いした!!!
これは素晴らしい。ポップがなんであるかを如実に物語ってます。
きらきらしたサウンド、にぎやかなアレンジ、不細工めなルックス。更にボーナスで伝説の名曲「Cold, Cold Winter」まで収録されていて感動した。
このシリーズすごい。偉い。
ピクシーズ・スリーは63年~65年ぐらいに活動していた女子高生トリオ。ただ恐ろしくマイナーな存在なので、知っているという人はとても少ない。けれども、ここにある楽曲のポップさは密かに支持され続けていたらしく、今回めでたく復刻にまでこぎつけたようだ。
この紙ジャケシリーズを見ていたら、なんとあのテディ・ベアーズのアルバムまで復刻されている!!
当分散財してしまいそうだ。。。
ハードコア紹介しようと思ったけど、ちょっと路線変更してしまいました。すいません。。。
当時のエクスタシーレコード周辺はポイズンのリリースもあったし、かなり重要だったと思う。このVIRUSは何が素晴らしいってこのデモのジャケがインパクト大だからである。
ボーカルが下手だとかなんとか酷いことを言われていたが、私は大好きなスタイルで、本作収録の「発狂」なんかは充分カッコイイと思う。
ジャンルだとメタルになるのかもしれないが、勢いが良く、荒めの演奏がハードコアにも通じる匂いを持っている。
この時期はすごいが、後期VIRUSはまったく別のバンドになってしまい、この時期のファンには辛いサウンドになっている。が、全部聴いてみて、それぞれ好きな曲を発見してみよう、という姿勢が重要なので、食わず嫌いだけはしないほうがいい。
スラッシュメタルが好きな人にはこのテープはオススメです。
そろそろ始めないと、せっかく覗きに来ていただいている皆様に申し訳ないので、少しづつ復活したいと思います。
広島ハードコアの自我は、GASと並んで当時のシーンを代表するバンドであると思う。
自我に関してはこの3曲入りソノシートと自殺レーベルのオムニバスでしか音源を聞いたことはないのであるが、他にも何か出しているのだろうか?
GASがこの前再発していたが、私は自我も大好きなので、できればこちらも出して欲しかった。もし誰も出さないなら出しちゃいたいけど、ご本人たちはその予定は無いのだろうか?
GASの再発も、後期の音源が入ってなかったし、あれはもっとライヴ音源も増やして二枚組みなんかで出して欲しかったなぁ、と贅沢な要望もさりげなく言っておく。
自我はライヴもけっこうこなしていたので、音源は捜せばもっと出てくるんじゃないかと睨んでいる。
なんにせよ、こういった良質なバンドの音を誰かに教えたくなるというのは、私の昔からのクセなので、更新も滞りつつも続けていこうと思う。
自我の壁!!!!!
こういうやり方、好きだなぁ。
出ていないアルバムの復刻なんて、おしゃれなことをしてくれる。
一応ジョン・カーターが絡んでいるので、サウンド的にも文句無しの出来。
一枚目、二枚目とサウンドの色が違うのもなかなか凝っている。
ライナーが妄想大爆発でおもしろいので、ぜひとも読んで欲しいものである。
で、実際にはこんなレコードは出ていないので、だまされてオリジナル盤を探したりはしないようにしましょう。日本語で書いてないから、けっこう信じちゃう人もいそうですね。。。
モッズサウンドの神様的存在ですが、やっぱりこの荒削りな衝動がなんともいえない快感である。
アグレッシブに攻めるロックンロールが、このようなスタイルでストレートに鳴り響くと本当にカッコイイ。
無条件で踊りだしたくなる、まさにマスターピース。
Small Facesはやはりこの一枚目が最初に聴くにはベストだと思う。
彼らのパンキッシュな演奏を聴けば、嫌なことや辛いことは大概忘れられる。
ロックンロールは、負のエネルギーを寄せ付けないことも出来るのである。
名の知れた名盤である。
でも、この変なジャケットのせいでまだ聴いていないという人も多いと思う。
かなりポップで、聴きやすいソフトサイケだが、果たしてこれをビートルズフォロワーの一言で片付けてしまってもいいものなのだろうか? たしかに名づけ親がジョン・レノンであり、アップルと契約までしたものの、ビートルズの付属品として語られるだけではあまりにももったいないバンドである。
フォー・シーズンズのカバーである「C'mon Marianne」以外はすべてオリジナル曲なので、やはりバンドとして素晴らしいグループだったことを再認識させられる一枚である。曲のクオリティがとんでもなく高いので、B級だのなんだのと言うのはこれときちんと向かい合っていないリスナーの妄言であろう。
極上のポップサイケに触れたければ、まずはここから。オススメです。。。
荒々しいロックナンバーから始まるこのアルバムであるが、本質は深く沈んでいくアシッドフォーク的な肌触りにこそある。
普通に「かっこいいロックアルバム」なのではないだろうか?
ファズギターの暴力的な音が描き出す風景が、ここまでモノクロームだというのも異様である。薄暗い世界をこういったアプローチで構築したという事実だけで100点だ。
サイケというよりアシッドガレージ、かな? そんな音です。
サイケどっぷりというより、前夜、といった感じか。
メロディも構成も文句無しに高いクオリティであるが、レアな一枚になってしまっている。
一応CD復刻され、簡単に入手できるようにはなっているが、知名度が恐ろしく低いゆえにたぶん誰も買おうとは思わないだろう。
この時代のロックを聞いてみよう、と思ってから、人はまず何から聞くのであろうか?
ビートルズ、もしくはストーンズの「サタニック~」あたりなのだろうか?
もしあなたが今「サイケなロックをとりあえず一枚聞いてみたい」と思っているなら、こういったかつての埋もれた佳作を手にとってみることをおすすめしたい。
B級だのなんだのと言っても、それは後から他人が評価したことに過ぎない。やはり自分の耳で、好きな音楽を純粋に探していくという行為は、それだけで素晴らしいことだと最近思ったりする。。
美しい風景の、ダイジェスト版ではなく、そのものの一部分を提供。
目を閉じて一人で聴きたい音楽である。
あまりに繊細で、自然体を誇示することなく、本物のナチュラルな感覚を出していることが特筆すべきポイントであるが、そのあまりの繊細さがゆえに埋もれてしまった一枚。
オリジナル盤は何十万もするが、いつか、死ぬまでにはオリジナル盤で聴きたいと思っている。この音楽が私は本当に好きだし、いろんな意味で何度も救われたからだ。
はっきりいうと、この場で紹介するのも躊躇したぐらい、このアルバムがお気に入りなのである。
この美しい音が、うたが、忘れられるようなことがあるならば、私は音楽なんて聴きたくない。
民族音楽だのトラッドフォークだのとジャンル分けして済ませてしまうようなことも私はしたくない。
ヴァシュティの声を聴くと、もうすべての感情が入り交ざったような、複雑な気分になる。
ノイズでなくとも、そういう表現は可能なのだということを、私はヴァシュティから学んだ。
これは凄い。とにかくポップサイケの良質な部分が凝縮されている大名作。
紙ジャケでリリースされていたので、ちょっと高かったが購入して正解だった。
内容はビートルズの影響大のサイケデリックポップ。で、ドリーミーな効果音や激しいファズギターも聴ける充実の一枚である。
こういった埋もれた名盤を今聴きなおす感覚というのは、懐古的な感覚ではなく、素直に新譜として受け入れるような姿勢でのぞみたいものだ。新しい音楽として知ることができれば、それはその音楽本来の価値観を見つめることが出来るだろう。
サイケに関しては、特に聴き手のそういった心構えが重要になってくると思う。
これ、レアでマイナーなサイケだったんだけど、この前CD屋で普通に紙ジャケ再発されててびっくり。
こんなものまで出るんだ~、と呆れたような感心したような。
化け猫ロックって、邦題もアレだけど、中身はもっと凄いことになってて、これはぜひサイケ好きは聴いておくべき一枚だろう。
私の持っているやつは輸入盤だけど、国内版の紙ジャケのやつはたぶんリマスタリングされてていい感じだと思うので、そちらをオススメ。
最近またこういうサイケの名盤(?)を集めたくなってきたので、ブログの更新も滞っていることだし、サイケ特集をやっていこうと思う。
まだまだこのジャンルは開拓しがいのある分野ですし。。
パワーで押し通すスタイルが多く見られる日本ノイズ群の中で、オウブはその繊細さや質的な輝かしさの拡大を行っていたという点で異色である。
精神の奥ゆかしさに圧倒されることなく、その末端へと神経を行き届かせるような緻密かつ膨大な内容の作業を、ここまでの完成度でやってのけてしまうのには驚愕せざるをえない。
顕微鏡を覗いた先は現実の拡大ではなく、まったく異なる次元の風景であると思い込ませるようなトリックが、このデビューアルバムには満ちている。
決してフェティシズムの主張やノイズであることの固執は感じさせず、ただひたすらに美しさを感じさせる粒子的な雑音が配列されたように規則正しく、ある種のミニマリズムをもって広がっているこの世界は、当時我々のようなノイズファンの目に、とてつもなく斬新で偉大なものに映った。
その感覚は今聴いても同じである。
このアルバム、先日間違えてシャッフル機能をオンにしたまま聴いたらかなり印象が不気味だった。
曲順によってこうも変わるのか、とちょっとした発見はあったが、それ以上の感想は特に無い。
なんせ、かなり聴き込んだアルバムだし、これを曲解した昨今の日本のポップな歌謡パンク(青春ロック?)バンド達がたどる悲しい運命を思うとなんだか憂鬱だからだ。
拓郎のコード進行だけを真似したり、あの暴力的な日本語の乗せ方にパンクを感じることは間違ってはいないが、もっと独特な感覚があることをつかんで欲しい。
その感覚をつかむための一番の近道は、やはりシャッフル機能、これしかない。
普段はクソの役にも立たないと思っていたシャッフル機能がここまで素敵な魔法になるアルバムはこれぐらいのものだろう。
配置された楽曲の結界をシャッフル機能で破壊することによって、吉田拓郎の本来の魅力がつかめるはずである。
暇なときは試してみてください。
更新が滞ってしまった。。。
最近は本業が異様に忙しい。
あぶらだこのような音楽は心にゆとりの無いときには聴けない。
だからこそ、今日はこの一枚を紹介しておく。
あぶらだこに悲劇性はまったくなく、かといってパラノイアックなギミックにばかり気をとられていると、音楽としての面白味を逃してしまうような、そんな世界である。
変拍子であろうが、ロックであろうが、一枚の塩化ビニールにパッケージングされた時点でそれは音楽メディアに転化する。
どんなに濃厚なものをやっても、薄っぺらな企画モノのCDと同列に扱われてしまう。だが、それは裏返してみればある種の理想的な環境なのであって、決して忌むべき性質のものでは無い気がする。
メディアという単位での平均化、均一化が行われれば、メジャー・マイナーなどという余計な区分は死滅し、新しい形での音楽文化が展開されることに期待できる。
そうなってくれれば、聴き手から見てすべてのレコードが同じスタートラインに立つことができ、奇妙な差別は発生する余地などなくなるわけである。
明るい未来のためにも、あぶらだことスーパーで流すBGMのCDなんかを一緒に購入することをオススメする。あなたの行動一つが、音楽を変えるのである。
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