世の中の右と左そしてうしろ 暗がりで笑う人をみたときや 銀行のATMで現金を取り忘れたときに なんとなく読むブログ
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2007年01月のアーカイブ
純粋であることを選択したとき、そこにはある種の速度が生まれる。ひたすら美しい情景を突き詰めていく姿勢は、ものすごく速い。
鈴木一記の声は独特のトーンであり、男性なのか女性なのか、子どもなのか老人なのかも判別できないような超越感がある。人間離れした、とはまさにこういうものを喩える時に使用される言い回しなのかもしれない。
1976年に自主盤としてごく少数流通した本作は、30年の月日を経て突如CD化された。熱烈なファンの青年が鈴木一記の遺族を訪ね、CD化の承諾を得たのだという。
私はこのCDを出した人物を知らないが、彼の姿勢と行動力に感謝の気持ちでいっぱいだ。この作品は多くの人に聴かれるべきものだとは思わないが、熱烈に聴きたいと思っている者が聴けないという負の状況を打開したという意味で、素晴らしいリリースだと思う。
本作の繊細すぎる世界は、まさに天才の遺した芸術品であるかもしれない。ただ、我々がこれに接したとき、我々は純粋にこの世界に打ち震え、心を揺さぶられることこそが、鈴木一記という存在をきちんとしたカタチで伝説化する手段だろう。
故人である天才的人物を伝説化することは決して悪いことではない。ただ、そこに誤解や曲解が混入してしまうと、伝説ではなく虚構の肥大となって、作品に触れたことのない人々の好奇心を間違って刺激してしまう恐れがある。
このCDはごく少数の流通ルートしか通していない。私はそれが逆に正しいやり方だと思う。オープンにし過ぎてこんなに素晴らしい音盤が「商品」として気軽に扱われてしまうのは、なんだかもったいないような、そんな気がするし、やはり聴きたいと思った人が手に入れることができる環境さえあれば、この作品が埋もれてしまう、という最悪の事態だけは防ぐことができるのだ。だから、今回のリリースはまさに理想的な再発のあり方だったと私は思う。ブランコレーベルの方は偉大だ。
鈴木一記の世界は美しく、純粋なものであったまま凍結されている。我々はそれを覗き見て、その素晴らしさに感動しさえすればそれでいいのだ。
余計な詮索や批評などを行ってしまったら、せっかくここまで繊細なガラス細工のように佇んでいる世界を破壊してしまいかねない。だから、ただ耳をすまして、彼のうたを聴けば良いのである。
優しさと儚さ、冷たさと暖かさに満ちた音楽。
私は一曲目ですでに鳥肌が立った。
ホンモノのうたというのは、そういうものだから。
このアルバムの突き抜けたマイペースさ、それまでの実験精神すら放棄したかのようなほのぼの具合はきわめて霊的である。
一曲目、「Parties in the U.S.A.」からいきなりのんびりした情景が飛び出し、隠れた名曲「You Can't Talk to the Dude」なんかも痺れるロック具合。ロックが本来あるべき素の状態をそのままポン、と出している。
名曲も多く、聴けば聴くほどに味の出る好盤であるものの、あまり話題に出ない一枚なのは、ジョナサンリッチマンの本質部分が本当はどこにも無いんじゃないのか、という恐怖が無意識に働くからであって、決してそのロックンロールが虚像だからではない。
ジョナサンの曲が底抜けに「ジョナサン・リッチマンの曲」であらんとするようなインパクトを保持しているように聴こえるのは、しっかりとした芯のような本質が存在しているからであって、一見奔放に放出されているようなサウンドも、しっかりとジョナサンの精神を孕んでいるものだということを認識してから聴きたい。
ここで聴けるジョナサンの歌はあまりにも剥き出しで、時に恐怖すら覚えるが、そうでなくてはロックンロールなんて意味が無いのかもしれない。
ホンモノのレア盤としてよく話題に上がる本作。現物は見たこともないが、あったとしたら信じがたい値段がつくそうな…。
某海外レーベルより半分ブートみたいな感じでちゃっかり再発されていたが、それももうほとんど売り切れらしく、結局また聴きたいけど聴けない、という人が出てきそうな予感がする。
内容はかなり良質なサイケデリック。わりかしドラマティックかつやわらかめな質感。何度聴いても美しい音楽だと思う。
Tomoaki Kamijoという人がミュージシャン気質な人物だったのかどうかは知らないが、かなり完成度の高い楽曲が並んでいる。ボーカルも味があり、翳りのあるメロディがなんとも渋い。ファズのかかったギターも鳴るが、全然うるさくなく、統一された静かな風景がより一層クリアに見える仕掛けには「はっ」とさせられたり。
これものんびり家でごろごろしながら聴きたい一枚である。 が、朝から聴くと、まったりし過ぎて家から出られなくなるので注意。
日本のロック史上にうっすらと輝く名盤。
ルイ・フィリップの一枚目は、あまりにも美しいアコースティックな直感で紡がれている。
後の鋭くなっていくポップセンスもいいが、この時点での限りなく静かで、色彩を封じ込めるような音の発せられ方にやはり惹かれてしまう。
とびきり優雅でありながらも、かつての60年代のポップミュージックから得られたエッセンスはきちんと消化していることがよくわかるこのアルバムは、革命的な衝撃というよりは、アイディアの素晴らしさを感じられる好盤といった趣である。
今の季節、部屋でゆっくり紅茶でも飲みながら聴くには、これほど最適なアルバムもない。
最近になって紙ジャケ再発されたCDには、ボーナスで大人気曲「YOU MARY YOU」が入っているが、個人的にはボーナスは無くても好きな一枚である。
YOU MARY YOUは名曲だけど、あれだけがルイ・フィリップというわけではないので、できればフルで聴いてほしいミュージシャンである。
King of Luxembourgことサイモン・フイッシャー・ターナーの持ち味としては、自分の趣味を全開にして一つの世界観を構築するところがずば抜けて優れている点が挙げられる。
趣味の良い60年代ポップスの再構築。
ただそれだけのことなのかもしれないが、彼の技術とセンスはとてつもなく研ぎ澄まされていた。
このアルバムをはじめて聴いたとき、あまりの密度の濃さと、その恐るべき統一感に感服した。まるで何かのボックスセットでも聴いたような、濃厚で大量の情報がぎっしり詰まった音楽。
彼の才能はしかし、ほとんど日本でのみの評価らしく、海外ではかなりマイナーな扱いになっているというのが信じられない。これほどまでに完成度の高いポップスが一過性のブームとして片付けられてしまうことが最も切なく、悲しいことだ。
と、思っていたら昨年本タイトルを含むelレーベルの作品群が紙ジャケ再発され、値段は高いものの、誰でもすぐに買えるような流通になったことが素晴らしい。
まだ未聴で、こういった音楽をこれから聴いてみようと思っている方には絶好のチャンスであると思う。
また、探せばアナログ盤も安い値段で売られているので、私のように金銭的にキツイという方には根気良く中古盤の棚を漁ることをオススメする。
ヴェルヴェット・クラッシュの前身ということで有名な一枚だが、ヴェルクラよりもいい意味で軽くポップな感触が爽快な編集盤。
これは好きで、なぜか再発盤LP(ジャケ違い)とCDと両方持っているくらい個人的にハマッた一枚だったりする。
サブウェイというレーベルにおいて、まずこのアルバムを思い出すという人も多い筈だ。
キラキラしたポップな音楽。ギターポップの理想型の一つだと思う。
こういったどこか壊れそうな繊細さと、それをおかまいなしに突っ走る無茶さが同居した音楽はとても清々しい。
こういうのを青臭いとか子どもっぽいと思うなら聴かなくたっていい。ただ、こういった音楽を今聴くということで、それがなんらかの前進となるならば、ずっと聴いていたっていいと思う。
廃盤だが掛け値なしの、最高のポップミュージック。
East Village、この前突如再発されました。
もちろん買ったわけですが、オリジナルで聴いたことがなかったのでかなり新鮮に楽しむことができ、そのクオリティの高さにびっくりしました。ただ、ちょっと値段は高かったですが…。
内容について言うと、完璧なセンスなのに、わざと地味な方へ突き進んでいくような、変なおもしろさがあるギターポップです。
ジャケから連想するようなストレートにポップな感覚は求めない方がいいでしょう。ちょっと上級者向けですので、試聴してからご購入をオススメします。
音自体はかなり良いですし、アイディアも豊富でゆったりしたサウンドなのですが、一人でゆっくり聴くのがベストです。あまり批評できそうな内容でもないので、ひとまず聴いてみて欲しい一枚です。
こういう地味路線狙いみたいな音楽は大好きなんですが、なかなか共感してもらえないもので、こういう場でないと好きだということを表明できずに困ってしまいます。
まぁ、一人でこそこそ楽しめば良いんですけどね…。
以前「牛若丸~」について書いたけど、こっちについて書いてなかったので書いてみる。
結局私は「牛若丸~」を貧困のために下北沢ディスクユニオンに売り飛ばしたわけであるが、こちらの方もだれか知人に貸したまま行方不明だったりする。
ただ、死ぬほど聴いたアルバムであるし、思い入れは半端じゃない。
よく言われる「ポップすぎる」「音が歌謡曲みたいだ」などという意見はどうだっていいと思う。北田氏のギターに町蔵の声が乗っかればそれでINUなのだから、不平をもらしてはいけないだろう。
北田昌宏氏のギターは本当にかっこいい。かなり影響を受けたし、ライヴのときはしょっちゅうチューニングを直すという部分も好きだ。あんな弾き方していたらそりゃぁチューニング狂うだろうけど…。
ここには入っていない「ハンバーガー」や「金魚」など、後期は名曲もあっただけに、それらをきちんとしたサウンドでスタジオ録音しておいて欲しかった、という思いは誰しもが抱いたことであろう。
しかし、それでいい。不満を言ってはいけないのだ。
INUというのはそういう音楽であり、バンドだった。
一切の意見を力任せにねじ伏せるのではなく、理解不能なパワーによって無効化させるような、不思議な状態を生成していたと思うし、演奏が始まったらあの尋常じゃないテンションなのだから、我々がどう思おうとINUへ与える影響など皆無なのである。
北田ギターの真似をしたパンクスのギター少年たちは一体どれほどの数いるのだろうか?
自分はもうどっぷりはまって毎日耳コピに勤しんでいたわけであるが、表題曲『メシ喰うな』なんかはどうやったってあんなのコピーできる筈もなく、かなり苦しんだ。まぁ、近い音を出せるまでには成長したが、音感が無いので完コピは今でも不可能だしする必要もない。
ともかく、北田ギターはすごい。そして、そのわりにギター少年たちは彼の存在を知らなかったりして残念である。連続射殺魔の和田氏、スラッヂの片岡氏と並んで、私の中で北田氏は日本のギターヒーローだったりする。ちなみに他にはガセネタの浜野氏、ラリーズの水谷氏など。
本作ではライブのときのような荒々しさや、INU本来の狂気に満ちたグルーヴは無いのであるが、それでもかなり重要な一枚であるといまだに思っている。
町蔵のボーカルはこの後の方が研ぎ澄まされてくるのであるが、それはまた別の日にでも。
遅ればせながら明けましておめでとうございます。
今年もゆっくりやっていこうと思っています。
現在、オークションで1万円以上するという本作も、数年前は下北あたりで中古盤が500~1000円で買えた。今でも、ブックオフあたりなら間違えて安売りされている可能性もありそうだが…。
発売当時、すでにいろいろと評判を聞いていたし1000円でお釣りがくる金額だったために買ってみたけれど、どういうわけか全然聴かずにそのまま奥底へしまいこんでしまっていた。
今回、とある方から本作のことを書いてほしいとリクエストをいただいたので、久しぶりに引っ張り出し、改めてプレイヤーにセットした。
デジタルな音で行われるサイケデリックな演奏。と書くと誤解されそうだが、当初の印象はそんな感じであった。極めて現代的な、2000年代のポップ・プログレかな、なんて軽く考えていたわけだ。だからこそろくに聴かずに実家の奥底へ封印されてしまっていたのだけれども…。
ところが、今回聴き直してみてびっくり。深いし、はじめて聴いたときのデジタルなイメージはまったく無かった。どうやら数年前の自分は耳やアタマがおかしかったようだ。
BOaTというバンドについては、ここに経歴やらメンバーに関してを書くのはやめておく。余計なデータは知らないまま、音に接した方が私のように妙な印象を抱いたまま封印するようなことは回避できるだろうから。
本作の緻密な音の動きは、同時にポップなメロディも抱き込んでおり、サイケデリックに似たゆったりした酩酊感を提供している。
黒、と来たらすぐに緑を。赤、ときたら黄を。という具合に、識別した瞬間に別の回答が投げられるような感覚が延々と続いていて、なおかつリラックスできるような仕組みである。
忙しいのにゆったりできる。一見矛盾しているようだが、心地良いスポーツのあとのような感じを想像してもらえば伝わるかもしれない。この音楽は、未来的でも無ければ、古のサイケデリックでもない。ただひたすら現代的であり続けることの美しさを、演奏として残している大傑作であるのだ。
できればライブを見てみたかったというのはあるが、これ一枚あればもう自分は満足だ。
かつてのフリージャズ、かつてのロックンロール、かつてのサイケ、それらの名演と同じ位置に立てるだけの存在感を今出すには、徹底的に現在の音楽、演奏であることを誇示すれば良いのである。過去の模倣や真似ごとではなく、現代的であることを選択した彼らに、私は拍手を送りたい。
ただ、私は気づくのが遅かったわけだが…。