世の中の右と左そしてうしろ 暗がりで笑う人をみたときや 銀行のATMで現金を取り忘れたときに なんとなく読むブログ
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くだんと言えばもう「件」という字のごとく、半人半牛なわけですが、あまりモダンではありません(別に韻を踏んでるわけでもありません)。
で、頭が牛と言ったら牛頭天王を思い出したわけです。
牛頭天王はもともとインドのゴーズ神というのが元になっているようなのですが、正体は不明です。八坂神社などで祀られておりますが、いろんな神が習合してしまったために皆から忌み嫌われる存在となっていたりします。
で、明治政府が政策の中で神仏を分離せよ、というようなことをやったわけです。いろいろくっついてちゃ訳がわからねぇからです。
牛頭天王というのはスサノオと同一と考えられる神でもあったので、それまで牛頭天王を祀っていた神社は全て「スサノオ神」を祀るというように変更し、いろいろくっついてお得という十徳ナイフのような牛頭天王など必要なかったのです。
ところが、「件」というのが人々のウワサの中で生まれ育ちまして、私は真っ先に牛頭天王を思い出しました。私は牛頭天王が大好きだからです。
思うに、内田百閒やこの小松左京の「くだん」、海外では「ミノタウロス」なんかに姿を変え、牛頭天王は人々の生活の中に息づいていたんでは無いかと推測できるわけです。
人々の伝聞や習慣には何らかの根拠、および発端が存在しています。「くだん」がただの「奇怪なバケモノ」として扱われないのは、もともとが神様であったからであり、信仰の対象と成りえるものであったからだと考えられます。
で、再びこの本を読むと…。うーん、プロフェシーかぁ。と、ラストのオチ(ネタバレ御免)で再び謎が残ってしまいます。そうです、未来を言い当てるとなると、時間軸が絡んでくるわけです。
時間が絡む→天体へと視点を向けるという安直なプロセスを経て、夜空に「かんむり座」を見つけたらあとは話が早い。かんむり座とはあのアリアドネの冠のことなんですね。
面倒なので短縮して書きますと、アリアドネというクレタ王の娘が、ミノタウロスに生贄にされるテセウスという青年に一目惚れするわけです。で、テセウスに迷路で迷わないための糸を渡してですね、結果的にテセウスはミノタウロスを殺害して無事に生還するわけです。で、二人でハッピーエンドかとおもわせといてサプライズなラストが待っているわけです。そうです、テセウスはアリアドネが好みじゃなかったのかなんか知りませんが、夢の中でアテネの女神が出てきて「アリアドネを置いて帰れ!」と言われたからという口実で一人国へ帰ってしまうわけです。で、絶望のアリアドネは海へ身投げ…。
と、そこに登場するのがディオニュソス!! アリアドネを助け、彼は彼女の冠を天高く放り投げました。その冠があの「かんむり座」なのだよ…、って長くてすいません。
ここで問題視すべきはやはり「ディオニュソス」です。彼は海外版「スサノオ」であり、外見的なものがミノタウロスであるならば、内面的な部分ではディオニュソスが牛頭天王としての役割を担っているのではないか、と間抜けな顔で考えてみました。
つまり、遠くギリシャでも牛頭天王は絶大なものを人々に残していたのでは? とちょっと夢が膨らんでいったわけです。ディオニュソスはたしか「東方で絶大な威力を振るって信者を獲得していた神」ではなかっただろうか、と。
ちょっと長くなりすぎたんでひとまず妄想はストップしますが、ひきつづき「くだんの件」については考えていきたいので、また書きます。
あ、小松左京について何も書いてないや。ま、いっか。
久生十蘭といえば「黒い手帳」。
探偵小説の概念をすべて粉砕し再構築した凶悪な作品である。
魅力はその物語としての構造、及び「探偵小説である」というカテゴリを見事に破壊したことにあり、今でもこの短編は新鮮な衝撃を伴って我々の前にある。
これからこういった古典作品が正当に評価されないならば、探偵小説の復権などありえないし、かつての熱いマグマのようなどろっとした興奮は二度と甦らないだろう。
若手作家は今一度「黒い手帳」を読んで、ミステリに夢中になった「あの頃」を思い出して欲しい。すべてが魅力的だったアンダーグラウンドなあの香りにもう一度浸って、面白い小説について一度考え直してみれば、娯楽としての文学が新しく発展していくことができると思う。
まぁ、『攻略法などない』わけだが…。
ブレードランナーの原作だから、ディック作品の中でもわりと知られている本作。いまさら何を語ろうというわけでもないので、今日は羊について。
最近羊がアツイ! もちろん個人的にですが。
あの形や生き物としての存在がとにかく面白いのである。なんであんなにフワフワした毛なのだろうか? このままでは羊マニアになりかねない。
で、さらに興味をひくこんなニュースもあって、ますます羊の不可解なイメージに翻弄されてしまう。
眠れないときは羊を数えるという儀式も各国に存在している。
羊が一匹、羊が二匹、…と、なぜ羊なのだろうか? まさかsheepとsleepをかけただけです、なんていう言い訳じゃ気がすまない。今こそ羊の霊性に注目しなければならないときなのではないだろうか?
箱とは何なのか。
外部と内部を作り出すためだけの装置ならば、別に箱にこだわらなくとも良いのだし、このような奇怪な物語が展開されることもなかっただろう。
安部公房はヒーローだった。みんな『壁』や『燃え尽きた地図』を読んで、その世界に震撼した。
僕もそんな読者の一人だった。
本書や『S.カルマ氏の犯罪』のように、暴力的に匿名化された主人公の存在は、よく比較されるカフカとはまったく別の性質を孕んでいる。そこが安部公房という作家の魅力だ。
象徴としての主人公。シンボライズされ過ぎた物語の中心的視点は、ただ冷ややかに状況を観察し、作者によって転がされる。あたかもモノのように、実在するフィクションのように、である。
芽吹いた感覚は麻痺に似たリアリティの質感であり、箱男やカルマ氏は幻想の内部でリアリティに接触する。つまりは虚構の行き過ぎた混沌である。抗えるものは安部公房ただ一人の独裁政治が顔を覗かせている。
本書は、ロマンに溢れた物語というのは、このような構造をもってしても可能なのだということをいまさらながらに実感できる良書である。小学生には夏休みにぜひ読んでもらいたい一冊だ。
読後はもう、どうやって逃げたらいいのかが、よく分かるようになってるはず。