世の中の右と左そしてうしろ 暗がりで笑う人をみたときや 銀行のATMで現金を取り忘れたときに なんとなく読むブログ
カテゴリー:フォーク
Morning Dewが流れると、暖房もつけていない冬の部屋が、途端に春めいてくる。
暖かみというのは、こういった雰囲気からでも感じることができるのだとわかったとき、BONNIE DOBSONは途端に消滅したりもする。
本作あたりから、バラエティに富んだ味付けが増してきており、これの次にリリースされた「Good Morning Rain」ではフォークロックのポップ性をさらに拡大することに成功している。
フレッド・ニールのEverybody's Talkin' や、ディノ・バレンテのLet's Get Togetherもカバーしているが、自作曲の空気作りが抜群なので、まとまった印象のサイケ・フォークアルバムといった感じである。
本作はいわばまったくヒットしなかったBONNIE DOBSONの再起作というか、ようやく陽の目を見たシンガーソングライターが全力で作ったアルバム、と言えるかもしれない。
Morning Dewはデッドもカバーしていたけれど、やはりオリジナルは純度の高い名曲である。
おれは、あんたのひまつぶしかい?
このときの宮沢正一は、まだフォークシンガーとしての味を持っている。後の人中間で聴けるような闇の世界も、ラビッツのふっ切れたような勢いもほとんど無く、ただただ、日常のスキマから滲み出した茶色い染みを指で擦るかのような渋みと、薄暗い叙情性をオーソドックスなサウンドで聴かせる。
キリスト~、のような薄暗くも美しい世界の構築もここではまだ行われてはいないが、ラストの「音をたてて出ていったものたちへのさいごのうた 」では後の宮沢正一に通じる暗黒面がしっかりと確認できる。宮沢正一という人物の遍歴を知るには重要なレコードの一つであるが、再発の予定は無いという。
この、一聴したところ友部正人をも彷彿とさせるカスレ声のフォークアルバムは、プライベート盤らしいというか、どこかこじんまりとした印象をもってひっそりと横たわっている。
純粋であることを選択したとき、そこにはある種の速度が生まれる。ひたすら美しい情景を突き詰めていく姿勢は、ものすごく速い。
鈴木一記の声は独特のトーンであり、男性なのか女性なのか、子どもなのか老人なのかも判別できないような超越感がある。人間離れした、とはまさにこういうものを喩える時に使用される言い回しなのかもしれない。
1976年に自主盤としてごく少数流通した本作は、30年の月日を経て突如CD化された。熱烈なファンの青年が鈴木一記の遺族を訪ね、CD化の承諾を得たのだという。
私はこのCDを出した人物を知らないが、彼の姿勢と行動力に感謝の気持ちでいっぱいだ。この作品は多くの人に聴かれるべきものだとは思わないが、熱烈に聴きたいと思っている者が聴けないという負の状況を打開したという意味で、素晴らしいリリースだと思う。
本作の繊細すぎる世界は、まさに天才の遺した芸術品であるかもしれない。ただ、我々がこれに接したとき、我々は純粋にこの世界に打ち震え、心を揺さぶられることこそが、鈴木一記という存在をきちんとしたカタチで伝説化する手段だろう。
故人である天才的人物を伝説化することは決して悪いことではない。ただ、そこに誤解や曲解が混入してしまうと、伝説ではなく虚構の肥大となって、作品に触れたことのない人々の好奇心を間違って刺激してしまう恐れがある。
このCDはごく少数の流通ルートしか通していない。私はそれが逆に正しいやり方だと思う。オープンにし過ぎてこんなに素晴らしい音盤が「商品」として気軽に扱われてしまうのは、なんだかもったいないような、そんな気がするし、やはり聴きたいと思った人が手に入れることができる環境さえあれば、この作品が埋もれてしまう、という最悪の事態だけは防ぐことができるのだ。だから、今回のリリースはまさに理想的な再発のあり方だったと私は思う。ブランコレーベルの方は偉大だ。
鈴木一記の世界は美しく、純粋なものであったまま凍結されている。我々はそれを覗き見て、その素晴らしさに感動しさえすればそれでいいのだ。
余計な詮索や批評などを行ってしまったら、せっかくここまで繊細なガラス細工のように佇んでいる世界を破壊してしまいかねない。だから、ただ耳をすまして、彼のうたを聴けば良いのである。
優しさと儚さ、冷たさと暖かさに満ちた音楽。
私は一曲目ですでに鳥肌が立った。
ホンモノのうたというのは、そういうものだから。
レアフォーク。ところどころにサイケな香りあり。67年録音、68年発売のカナダの名盤。
いきなりボブ・ディランのBaby Blueのカバーから始まるものの、声が気だるい感じで実にゆったりと聴かせてくれるアレンジになっている。
レナード・コーエンのカバーもさらっとした質感でやってのけるし、レア盤にしておくのはもったいないぐらい聴きやすいサウンドである。
何年か前にCDで再発されていたので、今も探せば見つかると思う。オリジナル盤はまず見たことありませんが、あったとしても高価なのでCDで入手することをオススメしたい。
と、こういう普通のレビューを書いていると「前みたいな批評っぽい感じで書け!」というリクエストなんかもあったりして、最近はブログ更新が遅れまくっている。
現在、音楽レビューはただ上記のようにレコードの紹介をするもの、個人的な感想を書くもの、そして批評するものの三つに分かれていると思う。特にこういう個人のブログでやっているようなディスクレビューというのはたいていが紹介や感想であって、批評は行われていない。
音楽を批評することにはそれなりの意義はあると思うのだが、それを選択して、一円にもならない個人のブログ内で展開していく、という人は見たことがない。
きっと、現代では音楽批評はできないんじゃないかと思う。
それは、個々のリスナーが充分な批評を自己完結的にできてしまうからではなく、ただ単に情報の氾濫と、山のように毎日どこかで発売されている音源の量があまりにも多すぎて、聞き手の認識から批評というものが抜け落ちてしまっているからだと思う。
いま間章のような書き手がいたとしても、音楽出版社はその批評家を無視すると思う。そして、代わりに情報だけを抽出して紹介できるライターを量産していくのだ。
今たとえば、浜崎あゆみの新譜とこのJEREMY DORMOUSEが同時に並んでいるとして、同じ人物が両方のレビューを書かなければならないという状況のとき、浜崎とJEREMYを均一化してまとまりのある文を書くためにはやはり「紹介」というスタイルを読み手も書き手も編集者も選択してしまう。ここでちょっと先鋭的な批評家が両者をガチで論じたところで、読者は読まず、編集者は勝手に文を改竄し、批評という文化は廃退していくのである。
それは何か寂しい気がするが、世間はJEREMY DORMOUSEのレコードにいかなる霊性が在るか? ということよりも、それが何年にどこの国から出て、どんな曲が入っているのか? という方に興味があり、メディアはじゃあその知りたい部分だけをご紹介しますよ~、という姿勢で読者のニーズに合わせたスタイルを作ろうとする。
私は根性が捻じ曲がっているので、そういう姿勢には疑問を持つ。なぜ情報の送受信だけで人々は満足しているのだろうか?
そしてそれは、音楽というものを情報ツールとしか扱えなくなってしまっている若い世代に多い。いまではテープやレコードでなく、MP3のような音楽ファイルで情報を得るような世の中であり、高い金を払ってでかいレコードを買い、じっくりA面B面を儀式のように正座して聞くなんていうやつはごく少数なのである。ただ、そういった儀式的な空気がなければ、音楽の楽しさや奥深さを完全に満喫することなどできないと私は思うのだが、ただ単に私が古い考えの人間なのだろうか?
せっかく聴くなら、とことん深くまでいってみようという、一種の探究心が、現代人には足りていないと、私は思う。
71年、トラッド。
これを正面から聴く気になったのは、キーフのジャケだから、という理由だけで、何の情報もしらないままレジへ持っていった記憶がある。
ジャケ買いというのはよくやったもので、月に一枚はジャケだけで買いものをしていた時期もあった。
そんな中の一枚だが、あらためて聴いてみるとトラッドのツボを押さえた実にクオリティの高い世界がぐるぐる回っている。
屈折した何かを求めていたときには、ここにある優雅な空気は理解できなかったのだが、今になってこういうゆったりとした音を求める気持ちが芽生え始めているような気がする。
ダンドゥ・シャフト。知名度が低いわりに、今検索してみたらなぜか紙ジャケでリイシューされているようなので、これからトラッドを掘り下げたい人たちにとっては良いタイミングなのかもしれない。
ニューロックの夜明けシリーズの後半に紙ジャケ再発でリリースされた極上のフォークアルバム。
オリジナルはビクターからの発売だったにも関らず、ほとんど無名という状況であったのだが、再発にて本盤を手にし、その素晴らしい世界に打ち震えたという人は多いと思う。
あまりに優しく、とろけるような怠惰と紙一重の日常が軽やかに歌われる。
「こんないい日は久しぶり」などは休日の昼下がりにのんびりと聴きたい名曲であるし、ここまでの日本のアシッドフォークの名盤が埋もれていたままではもったいないので、最近よく聴いている。
精神的に、しっかりと日常と向き合うのではなく、生活の中で生まれた心象風景を日記のような感覚でうたい上げてしまうところが、武部行正という人の魅力であり、この盤ではそれを最大限に盛り上げるべく、西岡たかしを筆頭とする豪華メンバーがバックアップしている。
最近ではCD盤も見なくなってしまったが、見かけたらぜひ手にとってほしい一枚だ。
一曲目、All along the watchtowerのカバーが最高なバーバラ・キースのセカンドアルバム。
98年に夫と息子がメンバーという凄まじいバンド、Stone Coyotesにて復帰したが、ここにあるような世界ではなくハードロック系の土臭いサウンドで、このアルバムのファンからはあまり評価されていない。Stone Coyotesのサウンドはそれでも、なかなかに味わい深いモノであるので、興味がある方は別物として聴いてみるのもいいかもしれない。
本作は長い間、いわゆるレア盤であり、最近になってCD化され、日本盤も出ているようだ。日本ではAll along the watchtowerのグルーヴ感が人気を呼び、一時はクラブヒットしたぐらい知名度はある。
たまに家でかけると、気分が高揚するので個人的に重宝している一枚。
初めて訪れた街で、なにやら古びた喫茶店を発見し、店内へ入ると唐突にこのような音楽が聞こえてくる瞬間の図式こそが郷愁なのだと思う。
落ち着いたフォークソングを聴きながら、濃いコーヒーを飲むのはしかし、ハードコアパンクで踊り狂いながら酒を浴びるように飲む感覚とどこかで通じていて、その連絡通路の間に座り込んでいるものこそが、我々が求めてやまない本質なのだと思う。
BRIDGET ST.JOHNのハスキーな声には、沈みこみながらその場所一点を見つめ続けるような感覚があり、その視線の先がゆっくりと焼け焦げていくさまを眺めるのが、僕らの休日の過ごし方になっているのかもしれない。
オーストラリア人、Paul Adolphusがなぜか京都に住み着き、東山の卑弥呼レコーズ(オクノ修のファーストなどをリリース)から出したというレア過ぎる一枚。この度350枚限定で復刻したが、あまりの情報の少なさに売れ行きは芳しくないようで、いまだ在庫はたくさんある。
内容は美しすぎるアシッドフォークで、日本のフォークシンガーよりもジャパニーズテイストを感じさせてくれる素晴らしいアルバムになっている。書道教室の一室で録音されたらしいが、まさにそんな京都の美しさ、素晴らしさを凝縮したステキな音楽であることは一聴すると良く分かる。
再発盤はジャケや盤も丁寧に復刻されていて、コレクターでなくとも一枚所有したくなる良い仕上がり。太陽+釈迦というジャケデザインのセンスも抜群である。
こういったレコードをコレクターの手だけに収めておくのももったいないので、若いミュージシャン志望の子たちにできるだけ聴いてほしい。音楽の美しさや楽しさ、日本で音楽をやることで見えてくるものを実感できる大名盤だと思う。
Paul Adolphusという人の心象風景は、使い古されたヒッピー文化やジャパニーズ幻想とは違ったピースフル・サイケの形をしている。70年代の京都にこんな音楽があったことを、驚くのも楽しむのも、現在になってこれが再発されたという事実を前提に行うのだから、やはりレア盤の復刻に私個人としては賛成である。
ps.Mrエレクト様、本作のことをお教えいただきありがとうございます。これはすごい。。
Bread Love And Dreamsの一枚目は、まだ後のサイケな広がりを見せる前で、非常に美しくまとまった素朴な一枚である。
フォーク・サイケの上品な感じは確かにあるかもしれないが、それ以上にシンプルな空気が非常に心地よい。
一般的な評価が集中しているのは3作目であるけれども、本作のブリティッシュ・フォークの鑑のような演奏はやはり個別に賞賛したい。
UKのSSWやフォークが一時再評価されていたが、それらは一過性のものだったようで、今では再び細分化され、なかなか浮上できないような環境になってしまった。
もし、こういった作品を聴いて、なんらかのインスピレーションを得られたなら、個人的にどんどん古い新しいに限らず、開拓していくというのは大切な作業だと思う。
シンプルに作るということは、無駄なものを削除していくというだけではない。
最初から限られたパーツのみで構築し、贅肉を生成させないことによって完成するものもある。
この72年のボストン宅録風フォークミュージックは、そのあまりのナチュラルな完成度に驚きを隠せないぐらいシンプルだ。
うたとアコースティックギター。それだけで世界が作られている。
たとえば、毎日通勤途中に見かけていた老人がある日を境に姿を見せなくなるとする。その場合、まず脳裏に浮かぶのは老人にのっぴきならぬ事態が訪れたのだろうか、ということである。ひょっして亡くなったのか、それとも体調を崩しているのだろうか? そんなことを想ってみても、すぐに老人と毎朝出会っていたという記憶は風化していってしまう。なぜなら、日常のリズムが浸透し、老人のいた風景がその規則性の層に埋没してしまうからだ。
PRENTICE & TUTTLEは、その埋没した日常を掘り起こすような作業を淡々と行う。それは、ときに残酷なことのようにも思える。
ブリティッシュ・サイケ・フォーク。
ジャケは青、赤、水色の三種類があり、どれもオリジナル盤は高くなっている。
ストローブス関係なので、そういう音を想像していたが、内容はソフトサイケ風味のフォークといった感じで、聴きやすくポップ。
なぜかラストの方に入っている、「Mother Mother Mother」がかなりノリのいいサイケ・ロックサウンドなのもおもしろい。普通に聴けるアルバムだと思う。
こういった隠れ名盤がどんどんメディアで紹介されるようになって、それまで独り占め気分を味わっていたコレクターの方にとっては嬉しくないかもしれないが、僕のような一般的な音楽ファンにはとても喜ばしい状況になってきたと言える。
これからも、こういったアルバムをどんどんCD化し、手軽に購入できるような世の中になってほしい。
たしかに、マイナーなレコードのCD化なんて金にならない商売かもしれない。ただ、その結果としてそれなりの喜びや新しい発見を与えることができるのだから、軽視するべきではないと思う。
そろそろブログ復活、って何回言ってるんだろう。。
覗いてくれている皆様、すいません。まじめにやります。
美しい風景の、ダイジェスト版ではなく、そのものの一部分を提供。
目を閉じて一人で聴きたい音楽である。
あまりに繊細で、自然体を誇示することなく、本物のナチュラルな感覚を出していることが特筆すべきポイントであるが、そのあまりの繊細さがゆえに埋もれてしまった一枚。
オリジナル盤は何十万もするが、いつか、死ぬまでにはオリジナル盤で聴きたいと思っている。この音楽が私は本当に好きだし、いろんな意味で何度も救われたからだ。
はっきりいうと、この場で紹介するのも躊躇したぐらい、このアルバムがお気に入りなのである。
この美しい音が、うたが、忘れられるようなことがあるならば、私は音楽なんて聴きたくない。
民族音楽だのトラッドフォークだのとジャンル分けして済ませてしまうようなことも私はしたくない。
ヴァシュティの声を聴くと、もうすべての感情が入り交ざったような、複雑な気分になる。
ノイズでなくとも、そういう表現は可能なのだということを、私はヴァシュティから学んだ。
このアルバム、先日間違えてシャッフル機能をオンにしたまま聴いたらかなり印象が不気味だった。
曲順によってこうも変わるのか、とちょっとした発見はあったが、それ以上の感想は特に無い。
なんせ、かなり聴き込んだアルバムだし、これを曲解した昨今の日本のポップな歌謡パンク(青春ロック?)バンド達がたどる悲しい運命を思うとなんだか憂鬱だからだ。
拓郎のコード進行だけを真似したり、あの暴力的な日本語の乗せ方にパンクを感じることは間違ってはいないが、もっと独特な感覚があることをつかんで欲しい。
その感覚をつかむための一番の近道は、やはりシャッフル機能、これしかない。
普段はクソの役にも立たないと思っていたシャッフル機能がここまで素敵な魔法になるアルバムはこれぐらいのものだろう。
配置された楽曲の結界をシャッフル機能で破壊することによって、吉田拓郎の本来の魅力がつかめるはずである。
暇なときは試してみてください。
霊的なもの。
彼らの歌を呪詛であるという人間がいないのは、彼らの歌が疑問ではなく解答であるからだ。
はじめから解答しか出されていないものに対して、誰も疑問を抱く者はいない。
そして、絶えず変化していく周囲があるからこそ、サイモンとガーファンクルは「呪術的ではないありふれたもの」として存在しているのである。もし仮に彼らの歌が変化し続けているとするなら、それ以外の存在に彼らが含有されることは無かったであろう。
いろいろな意味で、現実を見つめさせられる一枚であるが、人によっては「すこぶるありふれたもの」として聴かれてしまうのであろう。それがアーティストとしての死に繋がらないのは、ポピュラリティーという威力の絶大さを物語っているようにも見える。
おそらく誰も知らないのではないだろうか?
山神水神は「おそらく」宮沢正人という人の一人ユニットである。ただ、あまりにも情報が少ない(というより無い)ので、いままで誰もこのドーナツ盤を評価しようとしていない。
内容は弾き語りで、A面のボーカルは早回しでフォークルの「帰ってきたヨッパライ」風の作品になっているし、実際71年に録音されたからか、ビートルズの解散記者会見をパロディ化したライナーがまた独自のユーモアセンスで評価しにくいものなので、これに出会っても皆記憶の奥底に封印し、レコードは押入れの奥底に封印し、結果山神水神なんていうレコードはなかったことになるのだろう。
本盤のように、誰も知らないレコードをサルベージしてみるというのも、このブログの活用法としては良いのかもしれない。
誰か、このレコードについて少しでも知っていることがあったらコメントください。あまりにも謎が多すぎてちょっと怖いです。山神水神こと宮沢正人という方の消息を知っているという人も大募集。
多分自主盤ですので、プレス数も異常なぐらい少ないと思われますし、再発もしようと思う人間がいなそうなので望めません。本当に、何か知っていたら教えてください。他に音源があるのかどうかも分かりませんので。
実は変名で誰もが知っている有名ミュージシャンだった、なんてこと無いですよね…。
新譜を買わなきゃ! と思い、悩んだ挙句に購入したのがこのミチロウさんの新譜。
弾き語りになってからのミチロウさんは年々凄みを増してきて、ここではもう完成されたスタイルでの味わい深い弾き語りが聴ける。スターリン時代しか知らないという人にこそ、ここにあるシンプルな歌を聴いて欲しいし、スターリン時代を知らないという人にもオススメできる。まさに遠藤ミチロウな歌詞をあの声で歌うのだから、絶対に感動します。
ミチロウさんの弾き語りライヴでは、みんな真剣な表情でミチロウさんを呆然と眺めており、中には感動のあまり泣いている人もいたりしました。私も何度も観たわけではありませんが、スターリンとは別の魅力が、彼の弾き語りのステージにはあるように感じられました。
初めて聴くなら二枚組みベスト「アイパ」がジャケもオシャレでオススメですが、本作での「蛹化の女」は戸川純ファンでなくとも必聴です。ミチロウさんといえば「カノン」なわけですが、今回は戸川純の歌詞でカバーしています。後半やたら盛り上がって、シャウトするミチロウさんが素晴らしくカッコイイ。これは意外な組み合わせだったわけですが、聴いてみてなるほど、と感心かつ感動しました。
何か新譜でも買おうかな、と思っている人にこれはオススメの一枚です。
空を眺め続けると、ぽっかりと四角く切り取られる部分がある。
そこはいつのまにか真っ黒になり、何も無い空間のように見える。
ゆっくりと自殺し始めた水道の蛇口は、群れをなして時間を忘れた。
み空。
見てはいけないし、そのことを他人に話してはならない。
そんな空もあるようで、私は諦念の前に勘違いをする。
土着的な要素などいらない。そこで習慣を切り離すためのステップを考案してみてはどうか?
あるいは、罪の背負い方を変えてしまえばいいのでは?
くだらない発想は全て実現した。
時にまかせて、我々はただ発案し続ければいいし、また我々はそれぐらいしか意味を持っていない。
つまり、反省しなくとも良いのだ。
初期の頃のサンプリング多用なギターポップサウンドが好きだったんだけど、いつのまにか曽我部氏の趣味丸出し60~70年代フォークサウンドに急変したこの「東京」。特にはっぴいえんどの影響が色濃いのですが、ここまで好きなことをやれるというのは一種の才能ですね。
このアルバムの後も若松孝二的な世界や、URC的アングラフォーク世界に触発された曽我部氏の独自の音楽観は深まっていく。よっぽど好きなんでしょうね、こういうの。僕も嫌いじゃないです。
ソロになってからは全然聴いてないんですが、まだこの路線なのでしょうか? だとしたらある種偉大ともいえますね。
このアルバムと「若者たち」はわりと聴いたのですが、未聴ならばこのアルバムから聴いてみてください。曽我部氏の趣向がよくわかると思いますので。