世の中の右と左そしてうしろ 暗がりで笑う人をみたときや 銀行のATMで現金を取り忘れたときに なんとなく読むブログ
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2006年05月のアーカイブ
名の知れた名盤である。
でも、この変なジャケットのせいでまだ聴いていないという人も多いと思う。
かなりポップで、聴きやすいソフトサイケだが、果たしてこれをビートルズフォロワーの一言で片付けてしまってもいいものなのだろうか? たしかに名づけ親がジョン・レノンであり、アップルと契約までしたものの、ビートルズの付属品として語られるだけではあまりにももったいないバンドである。
フォー・シーズンズのカバーである「C'mon Marianne」以外はすべてオリジナル曲なので、やはりバンドとして素晴らしいグループだったことを再認識させられる一枚である。曲のクオリティがとんでもなく高いので、B級だのなんだのと言うのはこれときちんと向かい合っていないリスナーの妄言であろう。
極上のポップサイケに触れたければ、まずはここから。オススメです。。。
サイケどっぷりというより、前夜、といった感じか。
メロディも構成も文句無しに高いクオリティであるが、レアな一枚になってしまっている。
一応CD復刻され、簡単に入手できるようにはなっているが、知名度が恐ろしく低いゆえにたぶん誰も買おうとは思わないだろう。
この時代のロックを聞いてみよう、と思ってから、人はまず何から聞くのであろうか?
ビートルズ、もしくはストーンズの「サタニック~」あたりなのだろうか?
もしあなたが今「サイケなロックをとりあえず一枚聞いてみたい」と思っているなら、こういったかつての埋もれた佳作を手にとってみることをおすすめしたい。
B級だのなんだのと言っても、それは後から他人が評価したことに過ぎない。やはり自分の耳で、好きな音楽を純粋に探していくという行為は、それだけで素晴らしいことだと最近思ったりする。。
美しい風景の、ダイジェスト版ではなく、そのものの一部分を提供。
目を閉じて一人で聴きたい音楽である。
あまりに繊細で、自然体を誇示することなく、本物のナチュラルな感覚を出していることが特筆すべきポイントであるが、そのあまりの繊細さがゆえに埋もれてしまった一枚。
オリジナル盤は何十万もするが、いつか、死ぬまでにはオリジナル盤で聴きたいと思っている。この音楽が私は本当に好きだし、いろんな意味で何度も救われたからだ。
はっきりいうと、この場で紹介するのも躊躇したぐらい、このアルバムがお気に入りなのである。
この美しい音が、うたが、忘れられるようなことがあるならば、私は音楽なんて聴きたくない。
民族音楽だのトラッドフォークだのとジャンル分けして済ませてしまうようなことも私はしたくない。
ヴァシュティの声を聴くと、もうすべての感情が入り交ざったような、複雑な気分になる。
ノイズでなくとも、そういう表現は可能なのだということを、私はヴァシュティから学んだ。
これは凄い。とにかくポップサイケの良質な部分が凝縮されている大名作。
紙ジャケでリリースされていたので、ちょっと高かったが購入して正解だった。
内容はビートルズの影響大のサイケデリックポップ。で、ドリーミーな効果音や激しいファズギターも聴ける充実の一枚である。
こういった埋もれた名盤を今聴きなおす感覚というのは、懐古的な感覚ではなく、素直に新譜として受け入れるような姿勢でのぞみたいものだ。新しい音楽として知ることができれば、それはその音楽本来の価値観を見つめることが出来るだろう。
サイケに関しては、特に聴き手のそういった心構えが重要になってくると思う。
これ、レアでマイナーなサイケだったんだけど、この前CD屋で普通に紙ジャケ再発されててびっくり。
こんなものまで出るんだ~、と呆れたような感心したような。
化け猫ロックって、邦題もアレだけど、中身はもっと凄いことになってて、これはぜひサイケ好きは聴いておくべき一枚だろう。
私の持っているやつは輸入盤だけど、国内版の紙ジャケのやつはたぶんリマスタリングされてていい感じだと思うので、そちらをオススメ。
最近またこういうサイケの名盤(?)を集めたくなってきたので、ブログの更新も滞っていることだし、サイケ特集をやっていこうと思う。
まだまだこのジャンルは開拓しがいのある分野ですし。。
パワーで押し通すスタイルが多く見られる日本ノイズ群の中で、オウブはその繊細さや質的な輝かしさの拡大を行っていたという点で異色である。
精神の奥ゆかしさに圧倒されることなく、その末端へと神経を行き届かせるような緻密かつ膨大な内容の作業を、ここまでの完成度でやってのけてしまうのには驚愕せざるをえない。
顕微鏡を覗いた先は現実の拡大ではなく、まったく異なる次元の風景であると思い込ませるようなトリックが、このデビューアルバムには満ちている。
決してフェティシズムの主張やノイズであることの固執は感じさせず、ただひたすらに美しさを感じさせる粒子的な雑音が配列されたように規則正しく、ある種のミニマリズムをもって広がっているこの世界は、当時我々のようなノイズファンの目に、とてつもなく斬新で偉大なものに映った。
その感覚は今聴いても同じである。