世の中の右と左そしてうしろ 暗がりで笑う人をみたときや 銀行のATMで現金を取り忘れたときに なんとなく読むブログ
カテゴリー:フリージャズ
おそらくミルフォードは「ミルフォード・グレイブスとゆかいな仲間たち」なアルバムにしたかったのだろう。しかしながら、当時の日本のフリー・ジャズ界にそんなコンセプトに合わせてくれる素直な人間などいなかったわけであり、結果として殺し合いのような様相を呈してしまったというのがこのアルバム。
とりわけ安部薫は当時の来日の際、ミルフォードのドラムセットの前に立ちはだかってアルトを吹きまくり、演奏を止めなかったそうで、「次からはあいつを外してくれ!」とミルフォードげんなり。安部は「おれの勝ちだ!」などと意味不明な勝利を確信していたらしく、他のメンバーもわりと好き勝手にやっていたというのは有名な話。
そんなミルフォードと日本の変人による奇跡のセッションなのであるが、やっぱり安部のアルトが吹き荒れており、それを全力で潰そうとするミルフォードのプレイが他のアルバムより生々しい。
フリージャズ史の中でも重要な一枚ですね。
球体の中心を範囲の概念を無視して定めるのならば、それは点となるのかそれとも球体となるのか。
どちらにしろ生活的ではない、もしくは日常との関連性が無いという理由で我々が関心を持たない問題は多々存在している。
例えばA地点からB地点へ行く時、A→Bを直線で結ぶと、その線には無限の点があるため、Aを出発した人は永遠にBにはたどり着けないということになる。ところが、AとBを「自宅」「駅」などに入れ替えて考えると、常識的にはおかしなことになってくる。我々は常にそのA→Bへの移動を行っている訳であり、それが「不可能」だなどといわれる筋合いも根拠も無いのだ。
というような、思考の途中(この場合A→Bの移動の問題)であからさまにおかしいという猜疑の気持ちが芽生えてしまうと、次にやってくるのは「どうでもいい」という放棄・諦念である。そしてこの放棄のパワーというものが絶大なのだ。
高柳昌行のギターは大音量で全ての聴き手の思考を放棄させてしまう。爆撃のような演奏が開始され、それがまったく通常の音楽ではないと聴き手が判断したと同時に、その思考を根こそぎ刈り取ってしまうのである。
まさに観念の芝刈り機のような彼の演奏は、今もなお絶大な影響力を持って我々の音楽に対する思考を初期化させてくれる。下手な理念や思考を開始する前に、高柳のギターは概念の核爆弾のように脳内で爆発し、すべてをストップ、無効化してしまうのである。
驚くべきその演奏は、数々の作品で聴くことが出来るが、本作でのわりと聴きやすくライヴということもあって効果的なギターこそ、まず最初に聞かれるべき演奏であると思う。
アイラーの死体がイーストリヴァーで発見されたとき、時間は相変わらずモノクロームだった。曇り空、排気ガスの香り、アイラーの悲痛なサックス音。
団地のひび割れた壁を見つめつづけると、血まみれの政治的意識がこちらを覗き返してくる。灰色の静かな昼下がり。暑くも寒くもない。
アイラーの音は苦痛そのものであったのだろうか?
彼の音に、引き金らしい装置は付いていない。もちろん、楽譜やあらかじめ定められたルールも必要としない。彼の音はただ、汚れた川の水面を走る。物凄いスピードで、決してとまらない。
景色は展開されず、未来も開示されない。
しかし自己の魂だけは、美しく耀き続けている。
アイラーの死体は、そのまま処理された。
萎縮したジャズの幻影など、このアルバムの冒頭で発射されるサックス音ですべて吹き飛んでしまう。とてつもなくパワフルに構築された演奏は、それでも知的な空気、及び思想性を破棄してはいない。
このマシンガンは、フリージャズでは異例の枚数を売り上げたモンスターアルバムであるが、現在の耳で聴いてもやはり素晴らしい。手放しで絶賛できる数少ない演奏であると言える。
この時代の背景を思い浮かべ、そこで活躍していたヨーロッパのフリージャズシーンを思うと、なぜだかとても感傷的になる。懐かしさではなく、浪漫に満ちた回想もしくは妄想をうながしてくるのは、やはりブレッツマンのヘラクレスの異名をとるサックスなのだろうか?
阿部薫。こんな凄まじい音源を聴いてしまったら、もうフリージャズなんてやる気が起きない。
ランボーの詩より速く、そして早く突き刺さるアルトの音。リリシズムを感じさせる部分もあるのに、まったく緩くなどなっていない。無駄な部分は全て削ぎ落とされた完璧な脱エスタブリッシュメント音楽。
日本にはこんな素晴らしいサックス奏者がいたという事実を、これらのアルバムは確実に歴史に刻み込んだという点で、重要な音盤。フリージャズが苦手だという人はまずここから、という荒っぽい入門方法も良いかもしれない。
光り輝く忍耐。阿部薫の音は今でもその忍耐の武装を解いてはいない。アグレッシブなのは演奏者の内面であったということに気づくまでに、あと何度血を流せばよいのであろう?
本物が何か分からなくなったら、この強烈な存在に触れてみるといい。きっとすべてのイデアが喪失されることだろう。