世の中の右と左そしてうしろ 暗がりで笑う人をみたときや 銀行のATMで現金を取り忘れたときに なんとなく読むブログ
カテゴリー:ガレージ
脅迫的な幻想はエンターテイメントとして機能するべきなのか? そもそも、サイケデリックという異常事態の中で何かを思考するなど馬鹿げている。本来ならば取るに足らない出来事であったとしても、そこに理論を持ち込もうとするならば、サイケデリック・ロリポップというフィールドでは無効なのである。
例に出すならば、戦争体験談だろうか。
戦争という非・日常を、現在において戦争を知らない世代へ語り継ぐということが効果的とされているのは、戦争が絶対的な悲劇であり、「二度と繰り返してはならない」ということを学習するプロセスとして語りが選択されているからである。これは戦争が異常な事態であるという認識がなければ成立しないが、実際に戦争を体験していない者ならば、それは未知の非日常であり、経験した者からしても二度と経験したくない異常な体験であったのだから、両者の間にその語りが伝達されるということは、非常事態についての情報伝達であって、現実の非常事態下に両者がさらされている真っ只中ではないのだから、論理の介入が許されているのである。
しかし、これが仮に戦火の中であったとしたら話は別になってくる。両者が非日常に身を置いていた場合、そこでの論理はすべて「異常事態」の土台から枝分かれしたものであり、非日常的な性質で構築されたものにしかならない筈だ。
誰しも、論理という名の靴を履いて出かけるときは、いつもの道しか通れないという経験をしていると思うが、そこへ異常なものを取り込むならば、一度このブルース・マグースの一枚目を聴いてみてほしい。サイケデリック・ロリポップに平穏な日常が見えるならば、それでいいじゃないか。
十代の頃、女の子と遊びに行く前に必ず聴いたのがこれ。
まさかソニックス聴いてデートに行くような奴はいないだろう、と思われるかもしれないが、これかストゥージズの3rdをなぜかデート前に爆音で聴いてから家を出ていた。
今考えると、あれは僕なりの儀式みたいなものだったのかもしれない。ソニックスを爆音で聴くことによって、一種の照れ隠しみたいなことをしていたのだろう。
さんざん盛り上がって、最高のテンションで家を飛び出すわけだが、どういうわけかデート中はどうでもよくなってしまい、勝手に自分の好きなレコードを買ったり映画を観たりして、常にデートは失敗に終わっていた。苦い青春である。
いまでもソニックスを聴くと、無条件で盛り上がるが、この勢いをデートに利用しようなどという姑息な手段を思いついた若き日の僕が目の前に現れて、なんとも切なくなる。
そんな、個人的に忘れられないガレージパンクの名盤。もちろん彼らのセカンドも最高である。
とにかく勢い良く、荒々しいロックがスピーカーから思いっきり飛び出す。
このかっこよさは格別だろう。
ぐずぐずしていたら脳ミソがとろけ出した。
地下鉄のホームがなぜあんなに臭いのかと考え続けていたら、いつの間にか1日が終わっていて、代わりにピンク色の三輪車が置かれている。
電光掲示板を必死に目で追いながら、隠された暗号を見つけ出そうとするも、結局はなしくずしのセリーヌ的展開。バカを見たのは俺かお前か? 政治の政治が嘘から出た真で、真実の虚像がまた真実だった場合に天皇制におけるポストモダニズムの感覚を摘出できたのは不幸中の幸いであったと思う。
いずれにせよ、プリティシングスのR&Bパンクを聴いて、素直な感動を誰しもが得られるかと言うならそれは間違っている。解体や結合など、姑息な手段を用いなくとも、彼らは最初から剛速球を投げられたのだから。