世の中の右と左そしてうしろ 暗がりで笑う人をみたときや 銀行のATMで現金を取り忘れたときに なんとなく読むブログ
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脅迫的な幻想はエンターテイメントとして機能するべきなのか? そもそも、サイケデリックという異常事態の中で何かを思考するなど馬鹿げている。本来ならば取るに足らない出来事であったとしても、そこに理論を持ち込もうとするならば、サイケデリック・ロリポップというフィールドでは無効なのである。
例に出すならば、戦争体験談だろうか。
戦争という非・日常を、現在において戦争を知らない世代へ語り継ぐということが効果的とされているのは、戦争が絶対的な悲劇であり、「二度と繰り返してはならない」ということを学習するプロセスとして語りが選択されているからである。これは戦争が異常な事態であるという認識がなければ成立しないが、実際に戦争を体験していない者ならば、それは未知の非日常であり、経験した者からしても二度と経験したくない異常な体験であったのだから、両者の間にその語りが伝達されるということは、非常事態についての情報伝達であって、現実の非常事態下に両者がさらされている真っ只中ではないのだから、論理の介入が許されているのである。
しかし、これが仮に戦火の中であったとしたら話は別になってくる。両者が非日常に身を置いていた場合、そこでの論理はすべて「異常事態」の土台から枝分かれしたものであり、非日常的な性質で構築されたものにしかならない筈だ。
誰しも、論理という名の靴を履いて出かけるときは、いつもの道しか通れないという経験をしていると思うが、そこへ異常なものを取り込むならば、一度このブルース・マグースの一枚目を聴いてみてほしい。サイケデリック・ロリポップに平穏な日常が見えるならば、それでいいじゃないか。
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