世の中の右と左そしてうしろ 暗がりで笑う人をみたときや 銀行のATMで現金を取り忘れたときに なんとなく読むブログ
カテゴリー:アヴァンギャルド
NWWなどの入ったコンピ。
なかなか見かけなくなったレコードですが、個人的に思い出の一枚。ここにある病的な音に、10代の頃は本当に驚き、興奮した。こういうやり方もアリなんだ、こういう音をレコードにしてもいいんだ、という可能性の広がり、もしくはフリーという幅の大きさを思い知った。
ノイズは苦手という人の90パーセントが、きちんと作品と対峙していない、言わば聴かず嫌いな方だというのは私の勝手な妄想だけれど、事実そんな気がする。
優れた作品が何なのか? 最低な作品が何なのか?
それらを判断する能力は、やはり音そのものに触れていかなければ獲得しえないものだと思う。
こういったレコードを聴いて、自分なりの考えを持てたなら、それが賞賛であれ批判であれ、素晴らしい結果なんではないだろうか。
義務教育にぜひ導入すべき一枚。
後にいろんなことをやって、ことごとく中途半端な仕上がりになっていた彼らの初期作品。ここではかなりの暴力的なハーシュノイズになっている。
でも、この路線で突き進むよりはヘンなエレボデやデスメタみたいなことをやっている彼らの方が好感が持てるし、姿勢としておもしろいと思う。
純粋にノイズが好きな人にとってはこれが一番なのかもしれないけれど、CBの魅力は他の情けない部分にこそあると思うので、あまりみの盤をもてはやすことはここではしないでおく。
まずはCBの音に触れてみて、それを受け入れるか拒絶するかを聴き手が選ぶことが重要だと思うので、未体験ならば一度触れてみてください。
捻れたような日常内の白昼夢をイメージしがちであるが、このCD盤でのアプローチはアナログの時よりも真摯で美しい狂気に彩られている。片岡氏の中に息を潜めて存在していた現実離れした現実が、よりキレイな形で表出している。
ラストの「埒開かずの海」での混沌は特に深い。中途半端な飾り物の狂気が多い中で、こうした純度の高い本物の狂気を目の当たりにすると、思わず駆け出したくなるような恐怖におそわれる。
日本の音楽史を見渡しても、ここまで異質な感覚を保有したものは他に無い。
もちろん、ジャンルや時代性で語られるべき性質のものではないし、何かと比較できるものでもない。これはあまりにもストレートに歪曲しているからだ。
狂気的なものと毅然とした態度で向き合うというのはかなり辛いことであるが、具体的なものを普遍化しようとするような昨今の歌謡曲の悪辣さに比べたら、ここにある狂気は何事にもたじろがない強い意志に基づいて構築されているために偉大であると感じられる。
このCDを聴くと、思考することの無力さを徹底的に突きつけられたような気がする。考えを放棄させるのではなく、考えること自体を封じ込められてしまう。
このCDはジャケットも素晴らしいし、内容もアナログ盤とは違う録音なので、片岡氏の狂気に惚れ込んでしまった者ならば一度は聴いておきたいものだ。入手は困難であると思うが、再発希望の声があれば何とかして出してみたいものである。
ここにあるスラッヂのあのギター音とはまた違った狂い方の楽曲が、片岡氏の本質部分を覗き見ることができるものなのかどうかは不明であるが…。
一言でいうなら、恐ろしいまでの傑作である。
しばらく放置してしまった。
エスプレンドール・ゲオメトリコの金属ビートが、静かに鳴り響いている。
後半は随分とポップになってしまったが、このカセットのころの重苦しい雰囲気がゲオメトリコの魅力であった。
よくテクノイズの原点だとか言われて一部ではもてはやされているが、ちゃんと聴けば分かるとおりこれはただの雑音であって、曲解したイメージで接すると思わぬ落とし穴にはまりかねない。ノイズはノイズなんだと分からないままこういった音楽を闇雲に絶賛したり、中途半端な知識でテクノとの関連性を説いたりするのはやはり危険である。
まずはゆっくりと聴き、理解した上で、言論は行われるべきだと思うのだが…。
メディアが信じられないのはそのあたりの偽りの情報に踊らされている人があまりにも多いからであり、ゲオメトリコのような存在が誤解されたままの情報で認知されていくという状況はちょっと辛い。
本当は「スペインのノイズの人達」という、たったそれだけの情報で良いのである。実際に音を聴くまでのきっかけとなるのであれば、それは情報として活かされたことになるからだ。そこに余計な装飾は必要ない。ことにゲオメトリコのような音楽は、実際に金を払って聴いた時点で理解できる性質のものなのだから、聴いてみないことには何の意味ももたない。
知識を蓄えることはいい。ただ、体験することの方が何倍も重要だということを忘れないでほしい。
聴く価値も無い、などと批判されて、それがプラスのイメージに転化されるのはこのプッシーガロアぐらいなものだろう。ジョン・スペンサーはブルースエクスプロージョンよりもこの時代の狂った音の方が好きだ。ここにある剥き出しのどうしようもなさこそが、ロック・ミュージックの一番素直な形である。
ジョンスペがブルース・エクスプロージョンにおいて、自身の音楽の根底にあるものがブルースであるという一種の告白を行ってしまってからというもの、プッシー・ガロアをなんとか正統的な音楽として理解しようという運動(?)が広まったものだが、結局ここにあるゴミのようなロックに鼓膜を馬鹿にされてしまい、トラッシュイズビューティフル的な誤解を招いてしまったのが残念でならない。
プッシーガロアの酷い演奏を聴いて、そのあまりに下手でうるさくてゴミに等しい楽曲を、それそのものとして受け入れた上で絶賛できるならば、私はあなた方の音楽観を信じることもできる。ただ、やみくもに情報だけの「ジョンスペ」を聞いて判断しているならば、あなた方は私の敵である。
このようなものを『ローファイ』などと勝手に呼びつけてもてはやすような奴らは人間じゃない。これは限りなくゴミに近いロックであり、それ以上でもそれ以下でもない。判断はきちんと金を払って、何の情報も無いままこのようなゴミ盤を購入し、プレイヤーに乗せて出てきた音を聴いた上で行えるのだ。
前々から思っていたことだが、音楽の増殖によって聴き手のモラルや判断能力が著しく低下している気がしてならない。もしあなたが不安ならば、かつて子供の頃にレコード(若い子はCD)を買ったときのことを思い出してほしい。少ない小遣いで、本当に聴いてみたい音楽を買い、それこそ盤面が擦り切れるほど繰り返しリピートした筈である。あの頃の音楽に対する姿勢さえ取り戻せば、全ての音楽が輝かしく、そして生々しくリアルにあなたの前へその全貌を露出する筈である。
そこで料理方法を考える時間こそが、リスナーにとって最も幸せな時間なのである。
ちなみに私、ジョン・スペンサー&ブルースエクスプロージョンも大好きです。
トランソニックから出た企画盤。
初めて目撃されたUFOがなぜ円盤であったのか? とユングに訊かなくとも人間の考えることのパターンぐらいは分かるというもので、幻視・幻覚としての「内面から飛行してくるUFO」を考えたとき、最もそれに近い解答を提示しているのがこのアルバムである。
人は見なくてもいいものを見てしまう時もあれば、見なければならないものを通過していくこともある。すべては個人の経験・性質的な問題なのだが、それを堕落したシステムだと決め付けるというのも身勝手な意見であるし、かといって妄信的に幻影を追い続ける(矢追病)というのも、その枠から一歩出たときに支払われる代償を考えたら回避しておきたいパターンである。
もし、あなたが上空に空飛ぶ円盤を見たとしたら、一体何を思考するだろう。おそらく、その状況をそのまま写実的に解釈するか、何らかの精神的疾患が要因となって引き起こされているものではないかと疑うかの二通りだと思う。つまり肯定と否定の二者択一である。
そのような場合、一度思考を停止してこのアルバムを聴くといい。きっと先ほど見えたものがどうしようもなく馬鹿馬鹿しいもののような気がしてきて、二択の問題であったものがたちまち「過去のヘンな体験」として記憶される筈だ。そうなればもう悩む必要は無い。問題は過ぎ去った経験に変質しているのだから、あなたは再びいつもの生活に戻ればよいのである。
そういった意味で、本作は一種のリセットボタンとして機能する。
使い方は自由なのだが…。
関西シーンの得体の知れなさを感じるフロストの84年作ソノシート。このほかにも一枚レコード出てた筈ですが、確かな記憶ではありません。花電車のヒラさんがやってました。
花電車が轟音へヴィサイケだったのに対し、フロストはモノクロームなサイケデリックで、静かに背後から襲い掛かってくるような気配を感じます。
これが今後、花電車ほどの評価を得られるかどうかは分かりませんが、私はフロストの薄暗い感覚が大好きなので、ぜひとも再発してほしいものです。
質感としてはジョイ・ディヴィジョン的な密室サイケですが、それが関西という土壌でヒラさんの手によって作られているわけですから、当然一筋縄にはいきません。
当時の関西はホントに何でもありですね。凄いです。
もう記憶の奥底に埋没していたため、この狂気に満ちた世界を再び垣間見るのは少し怖かったのだが、聴いてみればなるほど、そういうことだったのかと根拠の無い納得をさせられた。
「寒いおでんは背中から」と「東京の新聞。」の二枚は、片岡理という異能を如実に語っている。
音としては歪みまくったテクノポップだろうか? 奇怪な電子音と片岡氏の独特なボーカルが当時の自主盤の中でも群を抜いて異質。なんでこの音楽のことを忘れていたのだろう? としばし疑問に思いつつも、あまりに狂気に満ちたこの盤をターンテーブルに乗せた以上、もう逃げ道は無いのである。
追記 ソノシートだと思ってたら、ちゃんとしたEPでした。
殺人級のナンバーがずらりと並ぶおニャン子クラブの1stアルバム。うなりまくるベースに全てを破壊するボーカル。発禁になった1stシングル『セーラー服を脱がさないで』ももちろん収録されている。
今あらためてメンバー写真をながめてみると、けっこうヤバいルックスの子(名前は伏せておきます)も何人かいて、あのヒットは何だったのだろう? と考えさせられる。
ただ、楽曲のセンスはやはり良く、この名盤が理解されないようなら日本でのパワーポップなんて意味を持たない。独特のメロディーとサウンドは今でも多くのフォロワーを生み出しているが、追従者と異なっているのは、やはりその適当な姿勢だったように思う。
おニャン子の暴力性は狂気的ともいえるぐらいの「適当な姿勢」にある。素人の集まりが今までうたったことのないうたを歌うのだから、そこから幻想的に高められたアナーキズムが発生しても何ら不思議なことではないのである。ただ、そのアナーキズムの威力が絶大であったがゆえに、今日におけるアイドルソングという名の反社会的な音楽は、この一枚に収束されるのだ。
日本という島国で勃発したもう一つのパンクムーブメントの、これは開始のキック・オフなのである。
不可解な闇の存在であるスワンズ。このアルバムは彼らの二枚組み初期音源集なのだが、とんでもなく重いインダストリアルナンバーが詰まっていて、CD二枚通して聴くと確実に圧死する。
音質としては80年代とは思えないほどの重量であり、へヴィロックなんていう言葉はスワンズのためにあるようなものだ。位置づけとしては、昨今のラウド系のバンドと、かつてのノー・ウェーヴの間を埋める重要な存在であると思う。
ニューヨークの暗部にこのようなバンドが蠢いていたという事実は、決して軽視してはならないものである。彼らの音は明らかに新しかったし、当時の誰にも真似できない危険な香りを放っていたのだ。スワンズを無視するようなロック史は、天皇のいない日本史と同じなのである。
詳しく知りたい人は彼らのオフィシャルサイトへ。
何回聴いたかわからない。おそらくタコ(山崎春美)の影響が無ければ、私は音楽など聴き続けていなかったかもしれない。本作とセカンド12インチは何回か手放したが、何回も買い戻した。音飛びしまくって売り飛ばした後に、ものすごく状態の良い盤を入手したので、現在持っている盤が私の墓まで連れて行くレコードとなるだろう。ブートのCDは聴いていない。
最初に山崎春美という人物を知ったのは『ヘブン』だったか。限りなく分裂症に近い文体は、簡単に狂気と呼ぶにはもったいない魅力に満ち溢れていた。その後『遊』の「は組」という特集で彼の才能が本物であることを改めて痛感。そして『宝島』誌上での「反渋谷陽一キャンペーン」によって、私の中での山崎春美は神格化されてしまった。
ガセネタのアルバムもいいが、本作での山崎春美のイメージの豊かさは特筆すべきものがある。参加しているゲストも、坂本教授、町蔵、佐藤薫、ロリ順、工藤冬里、スターリン、宮沢正一、香山リカ、篠田昌巳、大里俊晴、成田宗弘などと豪華過ぎる面子。ジャケは花輪和一、曲間の怪しいアナウンスは細川周平で、発音があきらかに間違っているのはご愛嬌。
これだけの豪華面子を山崎春美という天才がまとめているのだから、アルバムの完成度は聴かずともわかるであろう。音楽的にはセカンドの方が抜きん出ているが、山崎春美初体験ならば本作から聴くことをおすすめする。ただ、オリジナル盤もブートCDも今は異常に高いので、どうしても欲しい、という場合以外は手をださない方がいい。
タコの持っていた感覚は、分裂症気味のシャーマニズムである。サイケデリックな要因は単純に薬物による作用なのだが、本質の部分では古代の儀式的背景が横たわっているように思える。そこに山崎氏のピュアな狂気が土足で踏み込んでくるために、景色はつんのめって七色になる。音楽表現として極北なのではなく、新しい感覚としてのカルチャーだからこそ、タコの音楽は現在でも生々しく聴こえるのだ。
ししょうこと北嶋建也氏率いる関西の最重要バンド(?)のソノシート。
この謎の感覚こそ、関西の地下シーンの根底に流れているものだと断言しておきたい。
何にも似ていない、突然変異の演奏。北嶋氏は最近のアルケミーからのソロアルバムでも独自のソングライティングセンスを発揮しているので、合わせて必聴です。
ここまで純粋に自分の世界を構築できる人は稀少だし、日本のロック史に彼の名前が刻まれないのは間違っている。ブックレットも分厚く豪華なので、ここから入ってオルタネイティブな日本の音楽の深さを知るというのも、今年の夏の過ごし方としてはいいかもしれない。
エレクトロニカの身体性を考えてみても、電子音と人間本来のリズムというのは上手く同調するものである。佐藤薫が何をもってしてこういった世界を築いたかは謎であるが、音楽的な発生の原理としてはまさに王道ともいえる出現パターンであったわけだ。
タコの1stに入っていた人質ファンクの饒舌な回転ぶりにしても、佐藤薫という天才を如実に音が表現している。彼のセンスの良さは、現在においても廃れることなく受け継がれているし、金属バットの少年と、昭和天皇の幻影が付着した時代感覚はすでに遠くへ置き去っているのである。
現代的な音作りであるとか、時代の先を行っていたなどと言うつもりは全く無い。ただ、ここにある音は時間軸を狂わせる、もしくは忘却させる機能を備えており、ミニマルに反復するリズムは常に迷宮を構築していくのである。
提示されていたものが無残な屍骸ではなく、何も無い死という風景であったからこそ、より一層終末の空気を漂わせているのだろう。
それがEP-4という装置である。
変な、とか、奇妙な、というだけでこのアルバムを片付けてしまうなら、音楽に未来など無い。
フリージャズであっても、ブルースであっても、ビーフハートの発する音はどこまでも純粋な発明であり、理解する為のテキストは一切必要ないのである。
あまりにも偉大過ぎるアルバムであるので、はじめてロックを聴くとか、洋楽ってどんなものなんだろう? などと疑問に思っているような初心者には危険極まりない、死に直結する盤なので不用意に手を出さない方が身の為だ。まぁ、一生聴かなくても人生は送れる。そんな覚悟があるなら、逆にたまたま買ってプレイヤーに乗せてしまっても問題はないでしょう。これはそういうアルバム。
意外と過小評価気味だけど、私はこれに随分とお世話になったので、こうして大推薦しておきます。彼らがいなかったら、今の音楽シーンなど無かったのだから。傑作です。
シェシズの一枚目。永遠の名作。
アルケミーの再発CDだとボーナスで工藤冬里の歌う「星」が収録されていてお得。
向井さんのライヴはいつ見ても無駄がなくて素敵です。シェシズや打鈍も好きだけど、胡弓一本でインプロしてる向井さんが一番鬼気迫る感じで、演奏することの本質的な心構えみたいなものをダイレクトに伝えるような音が胡弓から発せられ、意識の深層をかき乱したり押さえ込んだりするような力が作用しているように思えます。
以前ワークショップに参加したとき、向井さんは婦人用自転車に胡弓を固定してやってきて、「近所なんです」と一言。その不思議な登場からしてインパクト大でしたが、そのあとも設置されていたピアノの弦を直弾きしたり、演奏表現も研ぎ澄まされていました。
胡弓を始めたきっかけは? というだれかの問いに、小杉武久からの影響を語っていましたが、妙に納得してしまったのは僕だけではなかった筈。
筋金入りの表現者の一人として、リスペクトします。
ゲロ吐きドキュメントの音源が非常にドラマティックな初期非常階段の傑作LP。インプロの持つアナーキズムをここまで拡大できたのは、無邪気な勢いがあったからなのだろうか?
ジャケットの日野マンガもいいが、中身のパワーノイズ(まだこの時期はエレクトロニクス多用ではない)が強烈。当時のライヴ映像を収めたビデオも出てるんで、ぜひ併せてご鑑賞ください。
日本のノイズが今日のように発展したのは、この非常階段の存在があったからに他ならない。ファウストやホークウィンドやスラップハッピーや森田童子を消化してきたジョジョ広重社長の闇が表出するのはしかし、後のソロアルバムでの出来事である。
「何気なく」というのは、その中の何パーセントかは虚偽で構成されていると疑ってかかったほうがいい。わざとらしさや「無意識に~」、というのも同様の性質を保有しているが、「何気なく」ほど無責任かつ得体の知れない感覚も他に無い。
このSLAPP HAPPYの1枚目も、そんな何気ない空気の恐怖が盛り込んである。ポップで聴きやすい感触に騙されて、ついつい深みにはまってしまうというパターンも多く、中毒者は後を絶たない。
鉄道レールは夏になると熱くて、冬場は冷たい。それは鉄道レール自体の事態ではなく、周りの気温が変化しているからであり、スラップ・ハッピーも聴き手が変化しているだけで、音楽事態は何気なくそこにあり続けるわけだ。
ともかく、厄介なレコードであることに違いはないだろう。要注意。
ファウストのセカンド。
彼らの中ではかなりポップだけど、一番って言ったらやっぱりこれ。
僕はアナログで持ってるんですが、丁寧に曲ごとのイメージ画のようなイラストが一枚ずつ入っていて、結構豪華な作り。
そういえばファウストがライヴで、空き缶か何かをステージに積み上げておいて、演奏のときに倒そうと目論むも、リハーサル中の時点ですでに我慢できずに倒してしまったというエピソードからも、彼らのユーモアが先天的に供わったものであるということが分かる。ファウストは確信犯であると同時に生まれながらのハプナーなのかもしれない。
このセカンドでの彼らは、わりとマトモな演奏も入れつつ、独自のエクスペリメンタルな部分を前作以上に研ぎ澄ましている。初めてファウストに触れるならここからがオススメだが、一枚気に入ったら全部欲しくなるということは覚悟しておいた方がいい。
気が狂うような音楽や、殺意すら感じるノイズといった類の作品なら簡単に作れる。だが、ここにあるような得体の知れない摩訶不思議な音楽に関しては正体不明と言うほかないだろう。いったい何を考えたらこんな音を詰め込められるのか? 冒頭の童謡・民謡パンクからして目の前にバラバラ死体を転がされたような心境になる奇怪なものだし、「1234」のカウントでドラムを叩きまくって「ストップ」で止めるだけとか、車を運転しながら喋ってるだけとか、さまざまな遊び心が怪異を引き起こしてしまっている問題作。
第五列の音源がアルケミーから出てたけど、このビニール解体工場もそろそろCD化されるべきだと思う。誰か出して。誰も出さないなら僕が出すぞ! 金ないけど。
このビニール解体工場をやってたDEKUさん、及びDEKUさんの知り合いだという方は連絡ほしいです。というよりただ単純にビニ解の他の音源が聴きたいだけなんだけどね。真剣にファンです。
金属ノイズがシャーシャー鳴ってる中、見えてくる風景は川端康成の「雪国」にも似たもの。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。」
そんな感覚に手足と脳が麻痺。悪夢と悪夢でコンニチハです。
TNBを動とするなら、オルガナムは静である、と昔から言われてきたことだけれども、改めて聴きなおすと両者ともに感慨深く、意識せず涙が出て来るような傑作であったことに気付く。
オルガナムの編集盤(真っ黒いジャケのやつ)を大音量で聴きながら、その叙情性がいかに優れた性質であったかを思い知って欲しい。そして、現代音楽とか好きな人にもぜひ聴いてみてもらいたい。オルガナムほどセンチメンタルな刺激を与えてくれる音楽もないだろうから。
このボックス出たときはかなり焦って、金が無いのに(二日ぐらいメシ抜き)かなり無理して購入した。にもかかわらず、ちょっと調べてみたら今でも簡単に入手可能っぽくて、なんだか悔しい気分である。あんなに焦って買う必要もなかったなぁ、と虚脱。
しかし、肝心の中身は素晴らしいことこの上無く、まだ買ってないなら全財産使ってでも入手すべき傑作。だってLAFMSの十枚組だぜ!? エアウェイもリック・ポッツもLe Forte Four も入ってるなんて、夢みたいな話じゃないか!
ちなみにスペシャル・エディションで11枚組のバージョンもあるけど、そっちは高いので普通のやつで充分だと思います。
このボックスに詰まった音は、いわゆる形式的なものには当てはまらない。自由に自由に自由に、とにかく出てきてしまった音がめいっぱい収録されている。日本語のアニメかなんかの主題歌をコラージュしていたり、暴力的なノイズが飛び出したり、素朴な単音がアンビエント式に鳴っていたりと、LAFMSの音楽には制約やルールが一切無い。そして、救いまでもが無かったりするのが、この人達が偉大な証拠。とにかく批評できるような品じゃないんで、各自何度も繰り返し聴くべし!
尾崎豊についてはこっちで全部書いてしまったんだけど、音楽的な面で書き忘れたので、追加。
このセカンド、ポップ・ロックだとおもってナメてかかってはいけない。尾崎の持っている歪みきった「青春のイメージ」が聴き手を襲い、情念とはまた別の意味でタガが外れたボーカルが気持ち悪い。かつて湯浅学氏か誰かが「若さのモンスター」と尾崎を位置づけていたが、まさにそのとおりの若さ大爆発盤がこれだ。とにかく聴き手の精神をかき乱すやっかいな騒音である。ラストの「シェリー」のイントロがラ・デュッセルドルフの個人主義に入ってる曲(タイトル失念)に似てると思ったのは僕だけ?
工事現場の前で突っ立っている時に聞こえてくる騒音と全く同じなので、昔警備員のバイトをしていた頃のことを思い出して陰鬱な気持ちになる一枚。
TNBの騒音は強烈な物音系ノイズである。つまり、ドカッ、バリバリ、ガシャン、ギギギ、バタンというような音が凶悪に連続するキング・オブ・物音なのだ。こういう音楽を聴いてエキサイトするような奴はロクでもない不良ぐらいなもので、金属バットで通行人を手当りしだいに殴りたくなる衝動にかられる迷惑な音楽である。
きわめてストレートなノイズとして、TNBの功績は評価できる。本作も500枚限定であるが、内容が凄まじい轟音なので、見かけたら即買いしても大丈夫。過去の作品も良いが、最近のTNBの方がより激しさを増していて個人的には気に入っている。
正直、個人的に最も影響を受けたのがこのユニットである。というより、スティーブン・スティプルトンのセンスや技術には今でも脱帽する。彼がいなかったら現在の音響系とよばれる音楽も無かったのではないだろうか?
ヒップホップより先にナース・ウィズ・ウーンドに出会ってしまったが故に、サンプリングよりもテープ・コラージュに魅力を感じた。そして、ブリジット・フォンテーヌのレコードの意外な使用方法や、DJプレイの何たるかを徹底的に見せ付けられ、少年だった僕はただただスピーカーの前で呆然とするしか無かった。
NWWが構築したのは、極端なフェティシズムと、ドリフのコントばりに破壊的なインパクトをあわせ持った混沌である。ただし、NWWの音楽は自分の気に入った音を、ただ素直にループさせたりカットアップしてるだけ。ただそれだけなのであるが、そこに組み込まれた尋常じゃない情念めいた気配が不気味に作用し、レコードである、又は音楽であるという線引きを不能にしてしまっているのだ。
このような形態の音を言語的に認識して語ったり理解するのはどうかと思う。カテゴリ的にはノイズ・アバンギャルドのコーナーに置かれることが多いが、実のところはノイズでもなんでもない。そんな、ただひたすら不可思議な曼陀羅絵図を描き続けるNWWの世界を、より多くの人々が聴きこむような柔軟な時代になったらいいと思う。純粋にリスペクト。
マコの19歳の頃のデビュー作。自宅録音の可能性が知りたければまず本作をハードリスニングするべきだろう。
ここで描かれている宇宙は誰のものでもなく、マコはその宇宙を自在に切り取って広げることができる天才だ。200種類もの楽器を使いこなし、鍾乳洞で録音したり、奥さんや猫の声を取り入れたりする姿勢は柔軟というより不定形と言った方がいいのかもしれない。マジカルパワーマコが誰で、どこにいて、どんな人間なのかは関係ない。ここに詰め込まれた音楽の素晴らしさは、他のどんな存在も追いつくことのできない性質のものである。
人は音楽を聴くと、まずそのミュージシャンや作品、または音楽を現在聴いているという前提の思考みたいなものが常に先行してイメージされるわけだが、マコの作品に限っては、そのプロセスが始めから破綻した状態で提示される。つまり、音を聴いているという感覚と、それによって引き出される筈のイメージがあらかじめ封印されていて、マコの作り出した宇宙が聴き手のイメージを侵食してしまうのである。
マジカルパワーマコが宗教家や科学者にならなかったのは、自分自身で宇宙を操ったり創造することのできる人間だったからに違いない。灰野がヴォーカルで参加している「空を見上げよう」などを聴けばわかると思うが、マコは複雑な世界を構築するタイプでは無く、ありのままの宇宙を目の前に広げるような手法で、常に聴き手を圧倒してきたのである。
本盤の他、ポリドールからの三枚と、最近の音響風の楽曲、そしてマムンダッドから突如リリースされた未発表音源集と、どれを聴いてもマコという宇宙がぽっかりと口を開けている。そこに飛び込む勇気さえあれば、簡単に世界を変えることが可能なのだ。