世の中の右と左そしてうしろ 暗がりで笑う人をみたときや 銀行のATMで現金を取り忘れたときに なんとなく読むブログ
カテゴリー:歌謡曲
日本のパワーポップ名盤の、五本の指に入るであろうシングル。
このデビューシングルの時点ではまだ横浜銀蝿の妹分的な位置にあったためか、楽曲もTAKUによるロックンロールベースのポップスでノリノリ。当時14歳ということもあって、甘すぎるリアルロリータボイスも衝撃的である。しかも何気に歌は上手い方。
何せ14歳で武道館を満員にしたのはこの岩井小百合だけだし、いまだにパワーポップマニアの間では伝説の存在になっている(と、思うけど私だけ??)。
最近になって突如岩井小百合ボックスなんていうとんでもなく素晴らしいモノが発売され、私は即買ったわけだが、後期の楽曲も良く、「アウトバーンより愛をこめて」とか「ときめきの海」も泣ける。
ボックスには伝説の武道館ライブの映像も収まっているので、岩井小百合ファンならこれは何がなんでも買うべきだと思う。
かつて、このシングルを聞きまくった夏、私はパンクに目覚めた。そのせいで「ドリーム・ドリーム・ドリーム」の振り付けを完コピしてたなんて誰にも言えない。
現役保母さんシンガーとして二枚のアルバムと三枚のシングルを残して突如消えたチャッピーこと中島世津子さんは、今は何をやっているのだろうか?
とにかく、このファーストで聴ける珠玉のメルヘンポップは絶品である。
谷山浩子にも通じる部分はあるものの、一曲目「fall in love」の痛快なR&Bパワーポップに乗るエコーの効いたチャッピーの声は間違いなくアイドル的であった。
とにかく情報が無いわけだが、音のメルヘン屋のプロデュースで限られた枚数のみプレスされたことだけはたしかである。チャッピーがどんな音楽に触発されていたのか、どんなプロフィールなのか、知っている人はぜひとも教えてほしい。
日本の自主盤やかつてのパンク・ハードコアの名盤がガンガン再発されている昨今、こういった自主ポップにも目を向けてみては、と思うのは私だけだろうか?
そこいらのB級アイドルは絶対にチャッピーのような深みを持ち得ないであろうし、ここまでドリーミーサイケに近づいた歌謡曲というのも珍しいと思う。
未発表曲やデモ音源があれば聴いてみたいが、たぶん無いだろう…。
私の中ではすでに殿堂入りの名盤である。
ポップ!!
中古レコード屋で5万ぐらいしていたこの名盤が、昨日近所のCD屋で普通に紙ジャケ復刻されていて即買いした!!!
これは素晴らしい。ポップがなんであるかを如実に物語ってます。
きらきらしたサウンド、にぎやかなアレンジ、不細工めなルックス。更にボーナスで伝説の名曲「Cold, Cold Winter」まで収録されていて感動した。
このシリーズすごい。偉い。
ピクシーズ・スリーは63年~65年ぐらいに活動していた女子高生トリオ。ただ恐ろしくマイナーな存在なので、知っているという人はとても少ない。けれども、ここにある楽曲のポップさは密かに支持され続けていたらしく、今回めでたく復刻にまでこぎつけたようだ。
この紙ジャケシリーズを見ていたら、なんとあのテディ・ベアーズのアルバムまで復刻されている!!
当分散財してしまいそうだ。。。
ハードコア紹介しようと思ったけど、ちょっと路線変更してしまいました。すいません。。。
大人になれば チョコレートたべて いろんな事を考えるものさ 『大人になれば』
一億人の妹、二代目コメットさん、衝撃のヌードなど、大場久美子に対するイメージは色々とあると思うが、その歌手活動の側面はあまり語られないままになっている。
つい最近、Arctic Monkeysというのが良いらしいと聞いてレコード店へ行ったのだが、間違えて大場久美子のファーストアルバム『春のささやき』を買ってしまった。
それまで、私はデビュー曲の「あこがれ」ぐらいしか知らなかったのだが、アルバム一枚を通して聴いてみて初めてこの良さに気がついた。
サウンド的には職人気質の作曲家たちによるソフトロックの歌謡曲的解釈なのであるが、作曲者の意図を全て破壊せんばかりに自由闊達な久美子のボーカルが炸裂しているため、まったく別の音楽として機能してしまっている。
彼女の歌こそ模範的な本来のアイドル歌謡曲であり、革新的なまでの斬新なスタイルであったと思う。
とにかく私的に詩的に深く入り込んでくる曲間のナレーションが秀逸であるが、もともとの楽曲そのものがクオリティの高いものであることが、さらに彼女の素晴らしい歌唱を後押ししている。
ラストの「電話ください」の歌いだしが森田童子ばりのサイケデリック空間へ突入しているのは、大場久美子の歌唱がもともと歌謡曲という使い古されたフォーマットにそぐわない成分を含んでいるからであり、革命的な歌手としてもっと認識されるべきだと思った。
全国のサイケデリック・スピード・フリークスは何も言わずにこれを聴いた方がいい。あと近年の希薄な歌謡曲にうんざりしている方にもオススメしたい。これをプレイヤーにセットすれば、それまで信じていた歌謡曲のヴィジョンが痛快なまでに破壊されていく光景を見ることになるだろう。そこからがあなたのパンクムーブメントの夜明けである。
何も信じなくてもいい、ここにあるナチュラルな日常の裏側を受け止めればそれで何かが変質するのであるから、その感覚だけを抱いて落ちて行けば良いのである。
よく言われる歌詞のドラマ性やサウンドの親しみやすさを抜きにしても、太田裕美が素晴らしいと断言できるのはその歌唱がとてもよく『鳴っている』からだと思う。
無の状態から何かを作り出すような、クリエイティブに満ち溢れた性質の歌では無く、それに接触したものすべてと共振するような伝達機能の優れた歌だ。
だからこそ、そこで歌われている事柄が『涙拭く木綿のハンカチーフください~』であったとしても、実際に木綿のハンカチーフを欲しているわけでもないし、涙が流れているわけでもない。それらはすべて歌を効率よく伝達していくための潤滑剤のような役割しか担っていないのである。
だからといって、作詞者や作曲者の存在を殺害しているわけではない。『さらばシベリア鉄道』を一聴すれば分かると思うが、楽曲自体の魅力が太田裕美の歌の魅力を更に強化する形でうまくまとまっている。作為的な部分もあるにせよ、ここまでうまくこなせるというのは明らかに天賦の才能であろう。
また、太田裕美の声質が多分に呪術めいたテイストを含んでいるように感じられるのは、その球形のような声が絶えず回転しながら、多角的に聴き手を魅了しているからだと考えられる。つまり、A地点から発せられた『恋人よ~僕は旅立つ~』が、B地点から『東へと向かう列車で』の時点でまだ聴き手の内部で鳴っているのであり、更にそれがまた別の顔を持ってして訪ねてくるようなカラクリが随時展開されているのだ。Aの場所からの声がBの地点では最初の『衝撃』に加えて別の感情を更に聴き手に突きつけ、Cの場所に到達するとまた違った側面からのアプローチが開始される、といった具合である。
そして注意したいのは、Aの地点で鳴っている瞬間にも、Zの地点からの歌が存在しているということであり、その同時多発的な性質こそが、太田裕美を魔術的に演出しているのではないかと思うのだが、木綿のハンカチーフを冷静に聴くと、そんなことはどうでもよくなってしまう。
素晴らしい表現であるならば、やはりそれはそのままの姿で受け入れるべきなのだろう。そんなことを、私は太田裕美から学んだのである。