世の中の右と左そしてうしろ 暗がりで笑う人をみたときや 銀行のATMで現金を取り忘れたときに なんとなく読むブログ
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子供の頃の友人が下北沢の街を守ろうという署名運動をやっている、と伝え聞いた。いわゆる下北の街をぶっ潰して道路を作ろうという計画への反対運動らしい。
そういったデモをする姿勢というのはとても潔く、好感の持てる態度であるが、私はいくら彼に署名を求められたとしてもそれに応ずることはできないだろう。
私はずっと下北沢で暮らしてきた。いまも下北沢に住んでいるし、毎日小田急線で出社している。
でも、それは道路建設計画への反対意志を表明する理由としては余りにも弱すぎるし、私個人には反対する理由は一つも無い。
「いままでの下北の街が無くなるからそれを防ぎたい」という意見は、一見文化を守る正しい姿勢に見えなくもないが、「そろそろ60年前にあった道路建設計画を実行したい」という行政側の意見と並べると、どちらも大して強い理由からの問題提起ではないように思えてならない。
別に私は道路を作るなとも、デモをするなとも言わない。ただ、もう少しよく考えて行動した方がいいんじゃないかと思う。
いままでの下北沢が本当に重要なのか? そんなにいい街なのか? 道路は必要なのか? 誰が得をするのか?
そういった疑問に対する解答が用意されていないまま、下手な運動を私はすることもないし、参加もしたくない。
そして、私にとって下北沢はそんなに良い街にも見えない。昼間っから若者がカツアゲしたりされたり、中高生がホテルで援交していたり、夜は酔っ払いの会社員やバンドマンが殴りあうような、そんな街の何を守ろうと言うのだろうか?
いい街だったら、それは思い出の中だけで充分だ。万人にとってのいい街など存在しないし、外観の保存が文化の保存に繋がるという短絡的な考え方もまた同意しにくい性質である。
いろいろ考えた結果から言えば、道路は通してもいいんじゃないかと思う。今更60年前の案を持ってきたということは行政にものっぴきならぬこと(金の話)があったのだろうし、今の下北の街が無くなって同時に滅ぶような希薄な文化なら、もともと守る必要のないものなのではないだろうか。
ちょっと前にECDが雑誌で「道路を通した上で新しい文化を作ればいい」というようなもっともな意見を言っていたが、デモに関係している人達にはそういう建設的な思考は無いのだろうか?
きっと、反対運動をする人の中にある「下北沢」の幻影はいつまでも美しく、理想的なものなのであろう。ただ、それに気をとられていると、まわりの物事が見えなくなってしまうという事にも気づいてほしい。
これから署名しようと考えている方は、物理的な街の死が、文化的、存在的な死ではないということをもう一度よく考えて署名した方が良い。安易な気持ちでの運動への参加は、危険な事態を招くことになるだろうから。
こりゃマズイでしょ、人権擁護法案。
明らかに国民の意見がまるで反映されていない法案だし、こんなもんが可決されたら僕のような人間はあちこちから攻撃されて獄中で孤独な死を遂げるということになりかねないでしょうね。
この法案の内容は、ちょっとした差別的な言葉や表現を徹底的に吊るし上げてやろうっていう『表現の自由の殺害』そのものとしか言えないものです。
というか何を考えたらこんな危険思想が育まれるんでしょうね。
公○党によるファシズムの布石にしか見えないんですけど、あいつらが守ろうとしているものが本当に人権なのか? アンケートをとったら全員がNOと答えるでしょうね。
しかし、もっとマスコミで騒がないとこの法案可決されちゃうよ。ホントに。
いまこそデモを起こすべきだと思うんだけど、世間の若者たちはまだホワイトバンドとか着けてるし、ダメそうな感じだよね。あー、ムカつく。
だいたい党員の意見しか尊重されないっていう体制が嫌だ。虫唾が走る。
あいつらは僕らに何をしてくれた? 金をくれたか? 自由をくれたか? 愛をくれたか?
こういうときだけしゃしゃり出て、善意の仮面を被って自分に都合のいいファシズムを展開しようとする、その腐った根性が許せない。
もしここを読んだあなたが「オレには関係ねぇ」と思ったなら、もう一度よく考えて下さい。
ひとまず、具体的な例を挙げます。
あなたの大好きなハードコアパンクを演奏しているバンドが突然差別的な歌詞を歌ったとします。そしてそれを聴いた誰かがそれを差別的なものとして受け止めたとします。そうしたらそのバンドには即、令状も無しに家宅捜査や資料押収、出頭要求が出されます。しかも拒否した場合は犯罪者として処罰されるのです。
どうです? ファシズムとしか思えない国家になると思いませんか?
この危険な法律は関係無いと思われていたハードコア兄ちゃんや絵描きの人、貧乏監督などをも生殺しにしてしまいます。表現が殺されるわけですから、世の中の表現は全て味気の無い偽りのメッセージソングや風刺漫画、偽りのドキュメント映像などになってしまうわけです。
反対運動も色々な場所で持ち上がっていますが、まだまだ生ぬるいです。可決されたら日本の文化が壊滅するのですから、悪しきカルト教団である××(公○党)が中心となって提案したこの呪われた法案を、我々は絶対に粉砕しなくてはなりません。
だいたい、こんな法案に賛成するような奴は××の信者くらいしかいないでしょうしね!
このままだとかなりの確率でこの法案が可決されるという危険な状況にあることを、皆さん一人一人が自覚してください。
この人権擁護という名の人権侵害を、皆さんはどうお考えですか?
最近巷で白いイカリングのようなものを腕に巻きつけている若者を見る。あれは何なのだろう? と疑問に思っていたら、先日テレビか何かで特集が組まれており、その異常性と脅威的な内容に背筋が凍りついた。それと同時に、まだこんなやり方が通用するのか、と世の中の馬鹿らしさを呪いたくなった。
そもそも、私は餓死まではいかなくとも、貧困な人間である。金銭的にも人間的にもだ。そんな人間がこういったものを見てどう思うか、この団体は計算していなかったらしい。
私のような貧困な人間からしたら、こんなものは危険思想を生み出しかねない凶悪な共同幻想としてのアイテムにしか見えない。
よく調べてみると、どうやらこの運動は決して募金活動のような性質では無く、ただ単に世界の貧困を救いたいという意思表示のためにあのイカリングを装着して悦に入るというものらしい。つまり、金持ちの自己満足が肥大化して形成されたものがあのホワイトバンドなのである。
お前らはメシも食えないぐらい貧しいけど、俺たちはお前らを救ってやりたいと思えるぐらいに心にゆとりのある素晴らしい人間だ、ということを口に出さずとも他人に伝達できる便利な腕輪というわけである。
そう考えると、なんとも不愉快な運動だ。
更に、このイカリングは300円もするらしい(これは日本だけで、他国の三倍近い値段らしい)。いくら何でも高すぎる。そんな金と本当に貧困を救いたい気持ちがあるなら素直に募金すればいいのに…と思う。
で、このバンドの収益の一部は団体の人たちの酒代などに変化するらしく、さらに買う気を失せさせる。もし純粋にボランティア精神に溢れた若者ならば、こんなものは買わず、すぐさま300円を募金箱に突っ込む筈である。つまり、イカサマすれすれの怪しげな新興宗教のキャンペーンとまったく同じ部類にこのリングは位置しているのだ。
そして驚くべきことに、明らかに収入など得ていないはずの小中学生すらこのバンドをつけているのである。さすがにその光景を見た時は吐き気がした。私のような貧乏人と同じラインに立っていた筈の無収入小学生たちですら、恐喝や売春で金を稼いでイカリングを購入しているのである。これはある側面から見たら低年齢の犯罪促進にも繋がりかねない状況とも言えるだろう。
このイカリングを装着したい、という人を私は制止するつもりはない。ただ、その一見ボランティア行為に基づいているはずの運動が、実はいつファシズムに転化してもおかしくはない危険性を秘めているということを自覚している者が少ないことが問題なのである。何も考えずにこのような政治的・宗教的な運動に安易に参加してしまうことの恐ろしさというものを、日本人はあまり理解していないようである。
ホワイトバンドをつける、という行為がファッション的な意味として動き始めている現在、その思想性が共同幻想化され、偏ったナショナリズムの方向へ転んだときが命取りである。イカリングを着けている者と着けていない者の間に亀裂が生じ、ヒエラルキーが生まれ、戦争に発展し、国家は崩壊するのである。
なんと恐ろしいことか。300円の白い腕輪のせいで救う筈の命の何倍もの犠牲者が出てしまう。そんな運動は今すぐ潰さなければ大変なことになる。
そこで、現在巷にくすぶっている無職の若者たちは「ホワイトバンド狩り」を行うといい。3~4人でグループを組んで幸せそうにしているホワイトバンドどもを金属バットで滅多打ちにするのだ。そうでもしない限り、この悪しき極左的運動は粉砕できないだろう。
収益のうち、一円も寄付はされず、更に収益の使い道が曖昧にされており、いままでの支援活動などをことごとく無効化しかねないという、この悪夢のようなホワイトバンドをあなたはどう思いますか?
2ヶ月くらいまえに、Google moonという月面を探索できるサービスがGoogleから公開された。
確かに月がPCのモニターで確認できて大変面白いのであるが、この装置のせいでまた一つ月の神秘性が剥奪されてしまったような気がするのは私だけであろうか?
もともと、月の霊性が失墜しなかったのは、物理的に届かぬが見ることは出来るという性質があったからであり、さらに科学的にも人類にあらゆる影響を与え続けていることが立証されているからである。
それをだれもが画面上で擬似的に所有できるとなると、ドラマ的ではあるが神秘性は薄れてしまう気がする。
しかし、これまで人類へ文化的、精神的に深い影響を及ぼしてきた月が、そう簡単に落城する筈はない。いつまでも月は魔であり脅威であり続けなければならないのだ。
だからこそ、我々はこのGoogle moonで思い切り月世界をもて遊んでみれば良いのだし、Google moonは更に細かく月面を観測できるようになればいいのである。
ひょっとしたら稲垣足穂の「ニッケルメッキの月」がそこにあるかもしれないし、ルネ・マグリットの「帽子の中の月」が見えるかもしれない。
月はまだまだ魔的な色彩を帯びているのである。
05年4月、イギリス南部の海岸をずぶ濡れになって歩いている男が発見され保護される。彼は一言も喋らず、紙とペンを渡すとグランドピアノの絵を描き、実際に保護した社会福祉士がピアノの前まで連れて行くと、物凄い勢いで突如ピアノを弾き始めたという。
彼の演奏力は驚異的なもので、その場に居合わせた全員が息をのんだ。
数々のクラシックの名曲が、礼拝堂のピアノから奏でられた。
このことは全世界に報道され、彼は謎の「ピアノマン」と呼ばれるようになった。
しかし、05年8月22日、英国のデイリー・ミラー・タブロイド紙にピアノマンの正体が判明したという記事が掲載された。全世界は天才ピアニストの正体に注目し、既に4ヶ月もの間その真実が伝えられるのを待っていたのである。そしてその結果はとんでもないものであった。
ピアノマンの正体はピアノなどまったく弾けないドイツ人だったのである。
彼はパリで職を失い、海岸で自殺しようとしたところを保護されたのだという。そして、もともと精神病棟で働いていた関係上、精神病患者のフリをし、医師たちを見事に騙し、ピアノも実際には弾いていないものの、周りが勝手に「素晴らしい演奏だった」とウワサし、今回の騒動にまで発展したというわけである。
ピアノマンは芝居だった。
その衝撃は、謎の天才ピアニストが発見された! という第一報よりも大きかった。なぜなら、魅力的だった筈の謎が、反則的なまでの『真相』によって一瞬にして無効化されたからだ。いままで作り上げたピアノマンという存在自体が、砂の城のようにあっけなく崩れ去ってしまう。その幻想の発端であった「物凄いピアノを海岸で保護された謎の男が演奏した」という事実そのものが「無かった」のであるから、話そのものがすべて解体されてしまったのである。
根本を失った幻想は、いまではただの現実のなんともない出来事のうちの一つとして、今後誰の興味もひくことはないだろう。ピアノマンはいなかった。その事実だけで充分に刺激的なのだから、ニュースに飢えている我々にとっては調度いいのかもしれない。