2005年09月のアーカイブ

bloodthirsty butchers 「kocorono」

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 もう10年近くたつんですね…。思えばブッチャーズやビヨンズやDMBQが出てきたあの頃が一番カテゴライズし難い音楽シーンだったのかも知れないです。
 ハードコアでも無く、グランジという訳でも無い、そんなオルタネイティブなバンドがこぞって出てきた中でも、ブラッドサースティー・ブッチャーズは硬派な感じで気にはなっていたんですが、なぜかライヴもそんなに観ていないし、アルバムは一枚も持っていなかったのです。
 そしてこのアルバムが出たとき、ジャケットのビッグマフがカッコよくてついつい買ってしまい、中身の音が更に真っ直ぐな感じで、とても好感を覚えました。
 その後、どうやら初回盤のこのジャケットの裏に映っていたスヌーピーが問題になって回収されたとか、どうでもいい話題がありましたが、中身の音の素晴らしさはそんなことに関係ないくらいに輝いていました。あまりに良かったので、僕の中のブッチャーズはこれ一枚で完結してしまいました。
 最近、元ナンバーガールの人が加入したとか、いろんなウワサを耳にしましたが、結局のところ僕の知っているブッチャーズはこのアルバムなので、それでもう良いのです。
 ロックバンドが恥ずかしい集団だと思っている人は、このアルバムを聴いてください。まともにぶつかってくる音塊が想像以上に神々しく、90年代の日本のロックを代表するアルバムの一枚として推薦しておきます。
 今日は物凄く普通のレヴューですが、それだけこのアルバムの姿勢が真っ直ぐだということです。こんな言い訳ですいません…。

投稿者 asidru : 21:27 | コメント (2) | トラックバック

ホワイトバンドの脅威

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 最近巷で白いイカリングのようなものを腕に巻きつけている若者を見る。あれは何なのだろう? と疑問に思っていたら、先日テレビか何かで特集が組まれており、その異常性と脅威的な内容に背筋が凍りついた。それと同時に、まだこんなやり方が通用するのか、と世の中の馬鹿らしさを呪いたくなった。
 そもそも、私は餓死まではいかなくとも、貧困な人間である。金銭的にも人間的にもだ。そんな人間がこういったものを見てどう思うか、この団体は計算していなかったらしい。
 私のような貧困な人間からしたら、こんなものは危険思想を生み出しかねない凶悪な共同幻想としてのアイテムにしか見えない。
 よく調べてみると、どうやらこの運動は決して募金活動のような性質では無く、ただ単に世界の貧困を救いたいという意思表示のためにあのイカリングを装着して悦に入るというものらしい。つまり、金持ちの自己満足が肥大化して形成されたものがあのホワイトバンドなのである。
 お前らはメシも食えないぐらい貧しいけど、俺たちはお前らを救ってやりたいと思えるぐらいに心にゆとりのある素晴らしい人間だ、ということを口に出さずとも他人に伝達できる便利な腕輪というわけである。
 そう考えると、なんとも不愉快な運動だ。
 更に、このイカリングは300円もするらしい(これは日本だけで、他国の三倍近い値段らしい)。いくら何でも高すぎる。そんな金と本当に貧困を救いたい気持ちがあるなら素直に募金すればいいのに…と思う。
 で、このバンドの収益の一部は団体の人たちの酒代などに変化するらしく、さらに買う気を失せさせる。もし純粋にボランティア精神に溢れた若者ならば、こんなものは買わず、すぐさま300円を募金箱に突っ込む筈である。つまり、イカサマすれすれの怪しげな新興宗教のキャンペーンとまったく同じ部類にこのリングは位置しているのだ。
 そして驚くべきことに、明らかに収入など得ていないはずの小中学生すらこのバンドをつけているのである。さすがにその光景を見た時は吐き気がした。私のような貧乏人と同じラインに立っていた筈の無収入小学生たちですら、恐喝や売春で金を稼いでイカリングを購入しているのである。これはある側面から見たら低年齢の犯罪促進にも繋がりかねない状況とも言えるだろう。
 このイカリングを装着したい、という人を私は制止するつもりはない。ただ、その一見ボランティア行為に基づいているはずの運動が、実はいつファシズムに転化してもおかしくはない危険性を秘めているということを自覚している者が少ないことが問題なのである。何も考えずにこのような政治的・宗教的な運動に安易に参加してしまうことの恐ろしさというものを、日本人はあまり理解していないようである。
 ホワイトバンドをつける、という行為がファッション的な意味として動き始めている現在、その思想性が共同幻想化され、偏ったナショナリズムの方向へ転んだときが命取りである。イカリングを着けている者と着けていない者の間に亀裂が生じ、ヒエラルキーが生まれ、戦争に発展し、国家は崩壊するのである。
 なんと恐ろしいことか。300円の白い腕輪のせいで救う筈の命の何倍もの犠牲者が出てしまう。そんな運動は今すぐ潰さなければ大変なことになる。
 そこで、現在巷にくすぶっている無職の若者たちは「ホワイトバンド狩り」を行うといい。3~4人でグループを組んで幸せそうにしているホワイトバンドどもを金属バットで滅多打ちにするのだ。そうでもしない限り、この悪しき極左的運動は粉砕できないだろう。
 収益のうち、一円も寄付はされず、更に収益の使い道が曖昧にされており、いままでの支援活動などをことごとく無効化しかねないという、この悪夢のようなホワイトバンドをあなたはどう思いますか?
 

投稿者 asidru : 20:36 | コメント (4) | トラックバック

GAUZE

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 ぶっかけろ!! 
 ガーゼは初期の音源から最近のライヴまで全てカッコイイ。
 あの突っ走る重さはどこから来るのだろう? 逃げ道を塞がれてもなお走り続ける切迫感と、あらゆるものを破壊する殺傷能力も兼ね備えた、日本が誇るべき最強のハードコアである。
 歌詞もよく聴くと真摯なもので、あの吐き捨てるようなヴォーカルスタイルで迫られたらもう腰が抜ける。現在まで一貫してハードコアな姿勢を保っていることにも注目だが、その音楽スタイルの堅実さこそがガーゼの魅力だと思う。
 伝えるというより、叩きつけるといった風情のメッセージが、あのサウンドでやってくる。どう考えてみても唯一無比のバンドであろう。純粋さにおいては右に出るものはない。
 ガーゼの楽曲をただの直接的表現として敬遠しているようならば、一度彼らのライヴに足を運んでみるといい。そこで展開されているのは決して直進するだけのエネルギーではなく、内部に入り込んで複雑に作用する消毒液なのである。
 もはや限界はどこにも無い。 

投稿者 asidru : 22:46 | コメント (10) | トラックバック

森田童子

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 透明な灰色が描きだす「ぼくたち」の風景は、感情の交流を拒絶している訳ではない。むしろ積極的にこちらへ手を差し伸べてくる断絶とでも言ったらよいのだろうか。うたの隙間からこぼれ出す不安や挫折は、全て偶発的な性質ではなく、意図的に作り出した感情であることが窺えるのだ。
 自らが突き放した時代性を、感傷的ともいえる詩とあのアルペジオの旋律でくっきりと映し出す森田童子という象徴は決して失われるべきではない。ましてやテレビドラマの主題歌になど…と思ったのは私だけでは無い筈である。森田童子は神聖な場所として機能すべきだからだ。
 ただし、森田童子は死を克服しているわけではない。死という最大の喪失に対して取るべき態度は一人の傍観者としてしっかりと見据えることだと彼女のうたは告げているように聴こえる。
 これを聴いて青春のセンチメンタリズムだけを受け止めるのもいいかもしれない。だが、本質は喪失への断絶である。希望に似ているかもしれないが、どちらかというと希望のための諦念といった道のりが見えてくると思う。だからこそ彼女のうたは断じてニヒリズムの範疇に収まるべきものではないのである。ネガティブなイメージと空虚な気持ちを抱いたまま、それでも生き続けるという全ての人間の存在を、森田童子ははっきりと描写していたのだから。

投稿者 asidru : 07:09 | コメント (7) | トラックバック

DNA 「DNA ON DNA」

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 初めから無かったのか、それとも本当は有機的なカラクリで活動していたのか。ニューヨークの地下で蠢いていたものが、ここにあるような灰色の希望であったならば、天国はわりと近くにあるのかもしれない。
 モダニズムを逆から透かして見る技法を身に付けたければ、まずはここから。驚くほど純粋な素朴さが逆に存在を犠牲にしてまで立ち上がろうとしている。
 そもそも、孤立と消滅は違う。DNAの孤立は決して消滅ではなかったが、存在の自殺は経ていたのだろう。亡霊のような印象が蓄積されていくなか、目に見えて立ち現れるのはまごうことなき死という幻想なのである。
 ここにある音は今後絶対に消費されることはない。そして喜劇的にデフォルメされることも許されない。DNAは墜落したミュージックを別の次元から嘲笑しているのだ。
 頽廃が罪悪ならば、あらゆる文化は炎につつまれ、そして消えてしまえば良いのである。

投稿者 asidru : 22:22 | コメント (0) | トラックバック

VA  「slice selection」

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 ここ数日、わけのわからない海外からのスパム・コメントが鬼のように投稿されてくるのでムカついてます。こういうことをするから私が海外を恐れ、日本から抜け出せなくなるのです。
 というわけでコメント制限をかけましたので、しばらくの間は、コメントを投稿してから一度保留の状態になりますのでご注意ください。

 と、嫌な気分を払拭するためにこのコンピを聴いて元気になります。
 「まつじ」とか陽気でいいですね。ポイズンアーツもカッコイイし、落ち込んでいるときはハードコアが一番です。

投稿者 asidru : 22:25 | コメント (4) | トラックバック

Nine Black Alps 「Everything Is」

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 新譜を聴かない生活が長かったせいで、このアルバムを買うのにもかなりの勇気と時間を費やしてしまいました…。
 タワレコで彷徨うこと二時間、閉店時間までねばって買ったこのナインブラックアルプス(NBA)はマンチェスターのバンドですが、ギターポップではありません。シューゲイザーっぽいという評判だったのでライドみたいなのを想像していたのですが、聴いてみればバキバキのグランジ風味でした。
 いろいろなレヴューなどを見る限りでは、ニルヴァーナっぽいと書かれていますが、ただのニルヴァーナクローンではここまでのアルバムは作れないでしょう。たしかに初期ニルヴァーナっぽいうねりはありますが、僕の一番好きな「Not Everyone」ではソニック・ユースを彷彿とさせるギターがカッコよく、このバンドのメンバーが過去のロックをいろいろと聴き込んでいるのが分かりました。
 久しぶりに買った新人さんのCDがここまでカッコイイとうれしくなりますね。マンチェ出身なのにグランジっぽいというのも高ポイント。最近のシーンに触れたければ絶対オススメです。

投稿者 asidru : 21:30 | コメント (2) | トラックバック

MC5 「Kick Out the Jams」

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 音楽の激しさや荒々しさといった暴力的なイメージを、全てぶち込んだ歴史的名作がこれだった。
 「Kick Out the Jams! Mother Fucker!!!!」
 もう何も言うことはない。
 ぐしゃぐしゃに丸められたロックンロールという言い訳が散乱し、人々はそれを踏みつけ、メチャクチャなステップで踊りはじめる。
 デトロイトの工業都市は、この一発で吹き飛んでしまった。
 パンク以前の音楽的反骨精神はここでレッドゾーンへ突入していたのである。

投稿者 asidru : 19:59 | コメント (5) | トラックバック

Stone Roses 「Turns Into Stone」

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 ストーン・ローゼスがあの時代のアイコンだったなどと誤認してしまうと、大切なサウンドを下水に流し込むのと同様の喪失に襲われる。
 実存が悲劇的性質を孕んでいるならば、位置を曖昧なままに本質部分だけを摘出してみればよいのである。ただ、イメージとしてのストーン・ローゼスが必ずしも本質的な部分と相似しているとは限らず、そこの行き違いがまた新たにストーン・ローゼスという伝説めいた空想を生み出してしまうならば、それほど皮肉なものはないだろう。
 表向きの「ストーン・ローゼスという情報」が広く伝播されるにつれ、そこに付随する形で生成されたイメージが含む意味は初めから隠蔽されたまま表出してきてしまう。覆面をつけたストーン・ローゼスのイメージは、正体不明のまま文化的な記号として定着してしまったのである。
 だから、ストーン・ローゼスについて語ることは困難なのである。根拠の無い説明を延々と繰り返すほか、彼らを歴史的背景で語る術は残されていない。
 しかし、今年のサマー・ソニックでのイアン・ブラウンを見た人達に聞くと、刹那的に捉えうる性質の音楽には成りえないという宿命がなんとなく理解できたように思える。
 ストーン・ローゼスは言わばダイアルアップ回線でインターネットをしている状況のまま、突然の停電で接続が切断されてしまったバンドである。可能性が顔を出す前に、全てが隠されてしまったのだから仕方が無い。
 今後、このバンドについての憶測はさらに溢れていくと思うが、そのどれをとっても、まったく輝いていないというのは、イメージが拘束されてしまった故の結果であり、ローゼス側にも我々の側にも責任は無いのである。
 だからこそ、もう一度あの音を聴いて、伝達されたイメージを改めて構築してみることをおすすめしたい。ストーン・ローゼスの良さがこれ以上曇ってしまわぬように。

投稿者 asidru : 13:41 | コメント (8) | トラックバック

Blues Magoos 「Psychedelic Lollipop 」

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 脅迫的な幻想はエンターテイメントとして機能するべきなのか? そもそも、サイケデリックという異常事態の中で何かを思考するなど馬鹿げている。本来ならば取るに足らない出来事であったとしても、そこに理論を持ち込もうとするならば、サイケデリック・ロリポップというフィールドでは無効なのである。
 例に出すならば、戦争体験談だろうか。
 戦争という非・日常を、現在において戦争を知らない世代へ語り継ぐということが効果的とされているのは、戦争が絶対的な悲劇であり、「二度と繰り返してはならない」ということを学習するプロセスとして語りが選択されているからである。これは戦争が異常な事態であるという認識がなければ成立しないが、実際に戦争を体験していない者ならば、それは未知の非日常であり、経験した者からしても二度と経験したくない異常な体験であったのだから、両者の間にその語りが伝達されるということは、非常事態についての情報伝達であって、現実の非常事態下に両者がさらされている真っ只中ではないのだから、論理の介入が許されているのである。
 しかし、これが仮に戦火の中であったとしたら話は別になってくる。両者が非日常に身を置いていた場合、そこでの論理はすべて「異常事態」の土台から枝分かれしたものであり、非日常的な性質で構築されたものにしかならない筈だ。
 誰しも、論理という名の靴を履いて出かけるときは、いつもの道しか通れないという経験をしていると思うが、そこへ異常なものを取り込むならば、一度このブルース・マグースの一枚目を聴いてみてほしい。サイケデリック・ロリポップに平穏な日常が見えるならば、それでいいじゃないか。 

投稿者 asidru : 10:41 | コメント (0) | トラックバック

ミラーズ

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 衝撃X!! あのミラーズの未発表音源集というとんでもないアルバム。よくここまで貴重なライヴ音源を集めたものである。
 東京ロッカーズの中でも、このミラーズは破壊的な魅力があった。フリクションのようにNY的なサウンドでもなく、リザードのようなニューウェーヴでも無い。どちらかと言えば直球の芯のあるロックンロールである。当時のシーンでもゴジラレコードを立ち上げ、中心的な役割を担っていたヒゴ・ヒロシは、自身のバンドであるこのミラーズにおいて、あまりにも画期的なパンクとしての姿勢を築き上げたのであるが、このアルバムではそれを最もダイレクトに感じ取ることが可能だ。
 未発表曲も、なぜ今まで世に出なかったのかが不思議なぐらいにクオリティの高いもので、この一枚を買って損するようなことはまず無い。
 キャプテントリップからということもあって、スピードのときと一緒だったら嫌だなぁ、などと思っていたのだが、そんな不安も一気に消し飛ぶほど強烈な音が詰っていたのでかなり嬉しかった。
 今日はそんなところで。

 ps、ちょっとブログの調子がおかしいですが、すぐに復旧しますのでお待ち下さい。申し訳ありません。

投稿者 asidru : 14:04 | コメント (2) | トラックバック

ピンクカット 太く愛して深く愛して

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 日活ロマンポルノの名作が来月一斉にDVD発売されるらしい。
 で、そのラインナップを眺めていると、ああ、こんなのあったなぁ…と感傷的な気分に浸ることが出来て、DVDを買わずとも満足のいく時間を過ごせた。
 日活はやっぱりちゃんと作られた映画が多く、テレビドラマを見るより遥かに充実した内容なので、高校生の頃は夢中になった。アンモニアのニオイが立ち込める荒れ果てた映画館で、500円程度を支払えば一日中ロマンポルノを鑑賞できるのだから(3本立てとか)、貧乏学生としては普通の洒落た映画館に行くぐらいならピンク映画を観る、という図式が当然のように出来上がってしまっていたからだ。
 この「ピンクカット~」もそんな頃観た一本である。
 監督の森田芳光の作品は、先に「の・ようなもの」を観ていたのだが、僕は「の・ようなもの」にはあまり感銘を受けなかった(というより森田監督独特の感性が苦手に思えた)ので、この作品も観る直前まで森田作品だとは思っていなかったし、特に興味も無かった。
 映画を観終わっても、「ふーん」という感想しか持てず、すでに次の映画に突入していたため、ものすごく希薄な印象でしか僕の記憶には残らなかったのである。
 で、数年前のこと。ビデオでなぜか出ていたので、なんとなくレンタルしてみた。
 確かに軽いタッチで、他のロマンポルノのようなドロッとした感じが無く、80年代のセンスに満ち溢れた映画であったのだが、舞台が僕の地元であり、今では無くなってしまった下北沢や梅ヶ丘の町並みを楽しむことができる。その再発見があったおかげで、この映画の印象はアップしたのだが、他の点ではどうにも評価しづらいのでここでは書きません。
 ちなみに、この映画の舞台となった床屋、現在でも存在している。そこを通る度にこの映画のことを思い出してしまうのは、おそらく現実と映画の中の風景が重なったときの「曖昧な感じ」に僕が惹かれるからだろう。フィクションと現実が記憶の中で曖昧になっているあのもやもやした感じが、映画鑑賞を一過的な娯楽に留めないためのきっかけになりうると思うのだが…。

投稿者 asidru : 17:42 | コメント (4) | トラックバック

ブロンディ 「軌跡 ザ・ベスト・オブ・ブロンディ」

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 ノー・ウェイヴの荒廃した地平を歩き疲れたとき、電柱の陰からデボラ・ハリー(通称デビー)が現れて私たちのためにキュートな歌声を聴かせてくれる。
 ニューヨークの町が途端に美しい光彩を放ちはじめ、CBGBの中はかつてないほどのポップ感覚が充満した。
 しかし、それを私は見たわけではない。決して見たわけではない。
 だから、ノー・ニューヨークを尻目にブロンディーのライヴだけを見ていたパンクスは潔癖症ではないのである。彼らの瞳に映っていたものは、デビーではなく、自己克服のための偶像だったからだ。
 デビーのステージのキュートさ、ポップさは、退廃美から目を背けることへの背徳を払拭するための強力なポップ・アイコンであった。DNAとブロンディーを立て続けに聴いて何が悪い? という開き直りが可能になるためのイニシエーションを、デビーはポップ要素とニューウェーヴ的装飾の中で見事に確立してしまったのである。
 ブロンディーの存在があって、初めてあのノー・ウェーヴの荒廃感覚がモダンな輝きを見せていたのだと思うし、パンクが自己喪失へ向かわないためのストッパーとしての機能も果たしていたと思う。
 色々な意味でブロンディーは重要な位置にあると思うので、比較的簡単に入手できるこのベスト盤を今日はオススメしたい。
 

投稿者 asidru : 05:32 | コメント (2) | トラックバック

ENO 「ANOTHER GREEN WORLD」

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 くすんだ色の熱気球が落下していく様子を見ながら、彼女はハンバーガーを頬張る。
 ベンチの下には得体の知れない乞食の子供が潜んでいるが、別に何かを狙っている訳ではなかった。獲物を狙うならば、このような公園ではなく、山や森林、そして都会へ赴けばよい。獣や植物や人間を獲って食らえば、彼らが低年齢のまま死んでいくなんていう現実は起こらないからだ。
 断絶の風景が時として彼女の瞳には緑色に見える。
 モダニズム×ダダイズムだと思うと、そのような視覚の変容も日常的に繰り返される。
 「ANOTHER GREEN WORLDはここでしょうか?」
 口から胃袋を吐き出しているようなグロテスクな老人が彼女に尋ねる。けれども、彼女はイーノが既に死体にしか興味を持っていないことを知っていたので、老人に対しては無言で押し通す。
 この時代のイーノはまだ別世界を信じていたし、生きた音楽を知っていた。カラフルなのに落ち着いた色調。イーノは音楽を生かしておく術も心得ていたのだろうと彼女は考える。
 しかし、「NO NEWYORK」のあの時間が彼を殺してしまった。
 いや、正確に言えば彼が音楽を殺す術を身につけてしまったと言えるだろう。
 音楽の死骸から流れ出す血液を、イーノは無慈悲に洗い流し、新しいイメージとして作り変えてしまう。本質が死臭漂うモルグのような暗澹たる雰囲気の地平から生まれたなどとは、イーノの音楽を聴くものには届かない。
 「だからイーノは表面的には変わっていないように見えるのです」
 彼女はいつの間にか声に出してそう言っていた。
 崩れ落ちた老人の死骸を、ブライアン・フェリーの引くリアカーが回収する。
 それからというもの、彼女はANOTHER GREEN WORLDのことを考えると、いつも腐った肉のニオイがするようになったのである。
 

投稿者 asidru : 21:51 | コメント (0) | トラックバック

小松左京 「くだんのはは」

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 くだんと言えばもう「件」という字のごとく、半人半牛なわけですが、あまりモダンではありません(別に韻を踏んでるわけでもありません)。
 で、頭が牛と言ったら牛頭天王を思い出したわけです。
 牛頭天王はもともとインドのゴーズ神というのが元になっているようなのですが、正体は不明です。八坂神社などで祀られておりますが、いろんな神が習合してしまったために皆から忌み嫌われる存在となっていたりします。
 で、明治政府が政策の中で神仏を分離せよ、というようなことをやったわけです。いろいろくっついてちゃ訳がわからねぇからです。
 牛頭天王というのはスサノオと同一と考えられる神でもあったので、それまで牛頭天王を祀っていた神社は全て「スサノオ神」を祀るというように変更し、いろいろくっついてお得という十徳ナイフのような牛頭天王など必要なかったのです。
 ところが、「件」というのが人々のウワサの中で生まれ育ちまして、私は真っ先に牛頭天王を思い出しました。私は牛頭天王が大好きだからです。
 思うに、内田百閒やこの小松左京の「くだん」、海外では「ミノタウロス」なんかに姿を変え、牛頭天王は人々の生活の中に息づいていたんでは無いかと推測できるわけです。
 人々の伝聞や習慣には何らかの根拠、および発端が存在しています。「くだん」がただの「奇怪なバケモノ」として扱われないのは、もともとが神様であったからであり、信仰の対象と成りえるものであったからだと考えられます。
 で、再びこの本を読むと…。うーん、プロフェシーかぁ。と、ラストのオチ(ネタバレ御免)で再び謎が残ってしまいます。そうです、未来を言い当てるとなると、時間軸が絡んでくるわけです。
 時間が絡む→天体へと視点を向けるという安直なプロセスを経て、夜空に「かんむり座」を見つけたらあとは話が早い。かんむり座とはあのアリアドネの冠のことなんですね。
 面倒なので短縮して書きますと、アリアドネというクレタ王の娘が、ミノタウロスに生贄にされるテセウスという青年に一目惚れするわけです。で、テセウスに迷路で迷わないための糸を渡してですね、結果的にテセウスはミノタウロスを殺害して無事に生還するわけです。で、二人でハッピーエンドかとおもわせといてサプライズなラストが待っているわけです。そうです、テセウスはアリアドネが好みじゃなかったのかなんか知りませんが、夢の中でアテネの女神が出てきて「アリアドネを置いて帰れ!」と言われたからという口実で一人国へ帰ってしまうわけです。で、絶望のアリアドネは海へ身投げ…。
 と、そこに登場するのがディオニュソス!! アリアドネを助け、彼は彼女の冠を天高く放り投げました。その冠があの「かんむり座」なのだよ…、って長くてすいません。
 ここで問題視すべきはやはり「ディオニュソス」です。彼は海外版「スサノオ」であり、外見的なものがミノタウロスであるならば、内面的な部分ではディオニュソスが牛頭天王としての役割を担っているのではないか、と間抜けな顔で考えてみました。
 つまり、遠くギリシャでも牛頭天王は絶大なものを人々に残していたのでは? とちょっと夢が膨らんでいったわけです。ディオニュソスはたしか「東方で絶大な威力を振るって信者を獲得していた神」ではなかっただろうか、と。
 ちょっと長くなりすぎたんでひとまず妄想はストップしますが、ひきつづき「くだんの件」については考えていきたいので、また書きます。
 あ、小松左京について何も書いてないや。ま、いっか。
 
 

投稿者 asidru : 06:52 | コメント (2) | トラックバック

山神水神 「1971」

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 おそらく誰も知らないのではないだろうか? 
 山神水神は「おそらく」宮沢正人という人の一人ユニットである。ただ、あまりにも情報が少ない(というより無い)ので、いままで誰もこのドーナツ盤を評価しようとしていない。
 内容は弾き語りで、A面のボーカルは早回しでフォークルの「帰ってきたヨッパライ」風の作品になっているし、実際71年に録音されたからか、ビートルズの解散記者会見をパロディ化したライナーがまた独自のユーモアセンスで評価しにくいものなので、これに出会っても皆記憶の奥底に封印し、レコードは押入れの奥底に封印し、結果山神水神なんていうレコードはなかったことになるのだろう。
 本盤のように、誰も知らないレコードをサルベージしてみるというのも、このブログの活用法としては良いのかもしれない。
 誰か、このレコードについて少しでも知っていることがあったらコメントください。あまりにも謎が多すぎてちょっと怖いです。山神水神こと宮沢正人という方の消息を知っているという人も大募集。
 多分自主盤ですので、プレス数も異常なぐらい少ないと思われますし、再発もしようと思う人間がいなそうなので望めません。本当に、何か知っていたら教えてください。他に音源があるのかどうかも分かりませんので。
 実は変名で誰もが知っている有名ミュージシャンだった、なんてこと無いですよね…。

投稿者 asidru : 21:11 | コメント (4) | トラックバック

WOES 「time-bomb」

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 たしか大阪のバンド。
 このソノシートは二曲目の「チンピラ」という曲がカッコよかった記憶はあるんですが、細かいことは既に忘却しました。
 SLASH THE THRASH 1987と書いてあるとおり、スラッシュなサウンドで、コーラスもばっちり決まっているとても律儀な一枚。スラッシュメタルにしては荒削りな感じなのでやはりハードコアなんでしょうかねぇ。まぁジャンルなんてどうだっていいんですが。
 もうちょっと音源があればいいんですが、生憎これしか聴いたことありません。他にも出ているんですかねぇ。
 ノリのいい演奏なので、ライヴとかでは盛り上がっていそうですね。見てみたかったなぁ…。

投稿者 asidru : 10:11 | コメント (2) | トラックバック

RAINBOW FFOLLY

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 幻想で遊ぶことの面白さを知ってしまうと、ここにあるような総天然色のおもちゃが自然に出来上がる。明るく楽しく、健全なクスリ遊びの世界だ。ただ、他人がおおはしゃぎで遊んでいる様を見せつけられているようで少し不快になるという人にはオススメできない。
 磁石の感覚、照りつける日差し、60年代サイケデリックの影。
 本質が風景的であるが故に、SEは対して効果的に響いていないが、何も無いよりはあった方がいい、という考えで入れられているような感じである。そのおもちゃ感覚がポップサイケにとっては重要なものなのだが、40年近い歳月を隔ててしまうとそれが不気味に変質し、理解不能の「ヘンな音」になってしまう。
 今現在、このような60年代のサイケを聴いて楽しめるのは、時間経過による我々の感受性の変化があったからだ。もし我々の感性が60年代のままなら、この盤を聴いても「当たり前の音楽」としか映らないのであり、古い時代の良さみたいなものを闇雲に模索したところで、それははかない幻想に過ぎなくなってしまう。
 機材、時代、そして人間の考え方も僅かながら変わったのである。あまり音楽を時代の背景として捉えた発言はしたくないのだが、全ての再発盤を新譜として、買ったそのときがその音楽の最も旬な時期と認識して聴くという姿勢がなければ、あらぬ誤解を誘発したり、音楽そのものを無駄死にさせかねない。
 そうならないためにも、私は「現在」を設定せず、再発盤も新譜として聴いている。そう、音楽には鮮度があって、せっかくイキのいいサイケでも「68年のアルバムだ」などという余計な予備知識があったせいで腐ったニオイを放つことだってあるのだ。それは受け手側のエゴなのだが、少しだけ聴き方を変えてやるだけで、全ての旧譜が「新しい音楽」へと生まれ変わるのだから、一度は試してもらいたい方法である。
 音楽を一切知らない人にバッハを聴かせ、これがロックなんだと説明すれば、その人にとってのロックはバッハが基準点となる。つまり、最初の段階で「何も持たなければ」全ての音楽が新鮮な姿で甦るのである。
 これほどまでにリーズナブルかつ単純な方法で、音楽鑑賞をより一層楽しむことができるのだ。一度聴いた音楽だって「忘れてしまえば」いい。そうすればCD一枚で一生楽しめるし、無駄な金を使わなくてもよくなるのである。
 貧しい音楽好きはまず、いままで聴いた音楽を記憶から抹消すべきだ。
 
 

投稿者 asidru : 21:47 | コメント (2) | トラックバック

Free 「Highway」

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 自由の怪物である。が、しかし道徳を敵にまわしているわけでもない。そこにはきわめて魔術的なプロセスが横たわっており、ときおり美しい色彩を放つのである。そして我々はその美しさに引き寄せられ、前作「Fire And Water」と比べると幾分か地味な雰囲気であるこちらのアルバムを知らず知らずのうちに聴き込んでいるのだ。
 それを簡単に洗脳だなんだと騒ぎ立てているようなら、このアルバムを聴く意味は無い。科学的な洗脳であるならば、フリーの持つ魔術的な要素は介入する隙がないからである。
 自由であることが有害だなどと思っているなら、このアルバムの美しさに溺れるべきだろう。今まで培ってきた「世界」が無残に崩れ落ちてもいいという覚悟があるならの話だが…。

投稿者 asidru : 07:25 | コメント (0) | トラックバック

石野真子 「狼なんか怖くない」

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 狼なんかよりもジャケの石野真子が怖い。今あらためて見るとけっこうヤバイ写真だね、コレ。
 こういうレコードを聴いていると、世間から疎外されているような気分になるが、実際は世間から疎外されているのではなく、自己の存在が世間そのものに同化していくのである。
 まぁ、レコードを聴いている、っていう密室での出来事をいきなり社会単位でのテリトリーで認識しようとするのも暴挙なわけだが、それを滑稽な姿勢だと笑い飛ばす方がどうかしている。あらゆる思考の挑戦は建設的であることが好ましいのだ。
 そこで考えてみたいのは「狼なんか怖くない」とは、狼という対象など自分にとって恐怖に値しないというだけの意味なのか、それとも「狼なんか怖くない、しかし○○は怖い」という文章の頭の部分であるのか、もしくは「狼なんか怖くない」と本心では恐れているが、精一杯の虚勢を張って強がっている姿勢なのか、という問題である。
 これについては他にも様々な説が考えられるのだが、結果としては「手続き」としての計算された一文であったのではないかという説を私は支持する。
 「手続き」としての「狼なんか怖くない」って何? と今あなたはぽかんと口を空けたはずである。手続きとしての「怖くはない」とは、表面的な意味では打ち消しの作用をまず働かせなくてはいけない。「怖くはない」の打ち消しは「怖い」と「どちらでもない」に道が延びる。つまり、相手を惑わすための虚偽の発言として「狼なんか怖くない」という一文が表れたというのが「手続き説」である。
 虚偽の発言をするということは、誰かを欺く必要性があるからで、その手続きに使用するツールとして「狼なんか怖くない」という言葉が発せられたというわけだ。
 と、朝っぱらからこのように気が狂ったようなことを延々と書いているのだが、なぜ私がこんなことを書いているのかと言えば、それは石野真子の狂気性をいかにして、文章を「読む」という形で体験してもらおうかと考えた結果の苦肉の策に他ならない。
 石野真子は狂気なんです。わかって!! などと書くより、こうした方がよっぽどいいでしょ? というわけであとはハンターの投売りコーナーとかでこのレコードを100円で買って聴いてみてください。そうすれば私の言わんとしていたことがよく分かるだろうから…。
 

投稿者 asidru : 06:41 | コメント (10) | トラックバック

衝撃のUFO 衝撃のREMIX

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 トランソニックから出た企画盤。
 初めて目撃されたUFOがなぜ円盤であったのか? とユングに訊かなくとも人間の考えることのパターンぐらいは分かるというもので、幻視・幻覚としての「内面から飛行してくるUFO」を考えたとき、最もそれに近い解答を提示しているのがこのアルバムである。
 人は見なくてもいいものを見てしまう時もあれば、見なければならないものを通過していくこともある。すべては個人の経験・性質的な問題なのだが、それを堕落したシステムだと決め付けるというのも身勝手な意見であるし、かといって妄信的に幻影を追い続ける(矢追病)というのも、その枠から一歩出たときに支払われる代償を考えたら回避しておきたいパターンである。
 もし、あなたが上空に空飛ぶ円盤を見たとしたら、一体何を思考するだろう。おそらく、その状況をそのまま写実的に解釈するか、何らかの精神的疾患が要因となって引き起こされているものではないかと疑うかの二通りだと思う。つまり肯定と否定の二者択一である。
 そのような場合、一度思考を停止してこのアルバムを聴くといい。きっと先ほど見えたものがどうしようもなく馬鹿馬鹿しいもののような気がしてきて、二択の問題であったものがたちまち「過去のヘンな体験」として記憶される筈だ。そうなればもう悩む必要は無い。問題は過ぎ去った経験に変質しているのだから、あなたは再びいつもの生活に戻ればよいのである。
 そういった意味で、本作は一種のリセットボタンとして機能する。
 使い方は自由なのだが…。

投稿者 asidru : 06:16 | コメント (2) | トラックバック

あけぼの印

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 なかなかに実直な音であった。自己への贈与ではなく、他者への提案として純粋に機能しているレコードなんて、今はあまり見かけなくなっている。
 テレグラフレコードのことが好きなのは、その純粋な製作姿勢があるからで、当時の自主レーベルの中でもかなりマジメな印象を受けるのだ。
 そんなテレグラフから出た、堅実そうなニューウェイヴバンドがこのあけぼの印。
 スタイリッシュさが足を引っ張らないのは、それがあけぼの印というグループの核であったからだと思うし、実際に演奏もしっかりしている。
 こういう真っ直ぐな姿勢の音楽が最近少なくなっている気がしてならないのは、ただ単に私の視野が狭まったからであろうか?
 世間の流れというものが、妙に早く感じられる。

投稿者 asidru : 05:49 | コメント (2) | トラックバック

FROST 「tambouring soul」

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 関西シーンの得体の知れなさを感じるフロストの84年作ソノシート。このほかにも一枚レコード出てた筈ですが、確かな記憶ではありません。花電車のヒラさんがやってました。
 花電車が轟音へヴィサイケだったのに対し、フロストはモノクロームなサイケデリックで、静かに背後から襲い掛かってくるような気配を感じます。
 これが今後、花電車ほどの評価を得られるかどうかは分かりませんが、私はフロストの薄暗い感覚が大好きなので、ぜひとも再発してほしいものです。
 質感としてはジョイ・ディヴィジョン的な密室サイケですが、それが関西という土壌でヒラさんの手によって作られているわけですから、当然一筋縄にはいきません。
 当時の関西はホントに何でもありですね。凄いです。

投稿者 asidru : 21:28 | コメント (0) | トラックバック

Google moon発表について

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 2ヶ月くらいまえに、Google moonという月面を探索できるサービスがGoogleから公開された。
 確かに月がPCのモニターで確認できて大変面白いのであるが、この装置のせいでまた一つ月の神秘性が剥奪されてしまったような気がするのは私だけであろうか?
 もともと、月の霊性が失墜しなかったのは、物理的に届かぬが見ることは出来るという性質があったからであり、さらに科学的にも人類にあらゆる影響を与え続けていることが立証されているからである。
 それをだれもが画面上で擬似的に所有できるとなると、ドラマ的ではあるが神秘性は薄れてしまう気がする。
 しかし、これまで人類へ文化的、精神的に深い影響を及ぼしてきた月が、そう簡単に落城する筈はない。いつまでも月は魔であり脅威であり続けなければならないのだ。
 だからこそ、我々はこのGoogle moonで思い切り月世界をもて遊んでみれば良いのだし、Google moonは更に細かく月面を観測できるようになればいいのである。
 ひょっとしたら稲垣足穂の「ニッケルメッキの月」がそこにあるかもしれないし、ルネ・マグリットの「帽子の中の月」が見えるかもしれない。
 月はまだまだ魔的な色彩を帯びているのである。

投稿者 asidru : 10:12 | コメント (0) | トラックバック

SPEED

SPEED kiss off.JPG   Dear Friends1 SPEED.jpg

 つい最近までスピードと言えば、ケンゴのボーカルがカッコいい東京ロッカーズ時代のパンクバンドを指して言っていたものであるが、90年代後半には女児が歌って踊る薄気味の悪いユニットが登場し、そちらの方が市民権を得てしまったが故に、名盤「KISS OFF」の評価はイマイチである。
 まぁ、どちらがパンクかと言われたら子供が歌い踊る方なんだが、「KISS OFF」のクールな感じをできれば多くの人に体験してもらいたい。
 ちょっと前に発売された「KISS ON」は「KISS OFF」と一曲も重なっていないという未発表曲集なのだが、あまりにも本来のSPEEDの魅力が失せてしまっているために、逆に「KISS OFF」の真価を曇らせてしまい、「KISS ON」の方ではじめてスピードの曲に触れたという人はかなりの誤解を生んでしまったのかもしれない。
 かといって「KISS OFF」はあのシティ・ロッカーからの発売だったということで、まず再発は無理だろう。これはスピードにとっては本当に迷惑な話だが、曲解されたまま不安定な伝説であり続けるしか、今の現状では考えられないようである。
 その一方、もう一つのスピードはガンガンCDを売りさばき、もう解散したらしいけど未だに編集盤とかが売れまくっているらしい。
 全ての音楽は等価であるが、それと同時に全ての音楽は流通の側面においても等しく聴かれるべきであると思う。
 この二枚のジャケットが同時にレコード屋に並ぶ日を夢見て、私はボロボロになった「KISS OFF」に針を落とす。
 そして、鋭いパンクサウンドが勢い良くスピーカーから飛び出すと、思わず泣きたいような気持ちに襲われるのだ。

投稿者 asidru : 09:28 | コメント (2) | トラックバック

GAS 「1982-1986 GAS」

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 眼球が回転する。彼は夢見心地だが、私は彼を知らない。私は彼を知りません。I don't know him。行方不明のアトミックボム、そしてその後の結果へと道は続いている。
 悪夢背負って生まれたのは、ヒロシマが持っている宿命だ。
 しかし、GASの荒廃した土地に残された憤りのような感情は、ヒロシマという土地の呪縛だけであったのだろうか?
 起爆力は原子の力を応用しなくとも、個人の中に各々存在している。GASの根本にあるモノはそのドロドロとした得体の知れない怒りなのかもしれないし、まったく関係の無いエネルギーによるものかもしれない。
 ここにあるサウンドは因縁や怨恨から来る怒りではなく、かといって社会的な反骨精神でも無いような気がする。本当のことを知っているのはGASだけであるが、呪われた部分の摘出は今もなお行われてはいないのだ。
 真相を見たければ2100円を支払って本盤を購入してみればよい。そこにはあなただけの解決が待っているだろうから。
 

投稿者 asidru : 22:43 | コメント (4) | トラックバック

SQUAREPUSHER 「Ultravisitor」

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 エレクトロニカには精神的、もしくは霊的な直感によって導かれる演奏がその音楽の生死を別つことになるのだが、トム・ジェンキンソンのそれは極めて素直に湧き出ているものだったということが、本盤においてようやく確認できた。
 まず圧巻なのが3曲目『Iambic 9 Poetry』だろう。美しい旋律に、あの乾いた音のスネアが響くとき、一見整然としている楽曲が魔的なまでの魅力を纏って視覚的に広がってくる。我々の体温は奪われ、モダンな感覚は冷却された食肉のように無機質になる。しかし、そのあまりに美しい『殺伐』に、我々は陶酔するのだ。
 いままで彼の作品で聴くことのできた「スクエアプッシャーなベース」はすっかり鳴りを潜め、代わりに無駄な贅肉を全て削ぎ落としたサウンドが全面に押し出されている。
 かつてのスクエアプッシャーしか知らないなら、過去のアルバムを全て売り払ってでもこの一枚を買うべきである。もはやトム・ジェンキンソンはエレクトロニカなんていう古ぼけた場所にはいないのだから…。

投稿者 asidru : 10:12 | コメント (11) | トラックバック

GREAT PUNK HITS

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 改革を起こすことがどれだけ困難かを考えてみると、改革を始めようとする初期衝動すらも萎縮してしまう。面倒なこと、リスクを負うこと、多大な時間と労力を費やすことを、我々は無意識的に回避してきたはずだ。だから「日本でのパンクムーブメント? そんなもんねぇよ」ということになってしまい、ここにあるような優秀なハードコアパンクが一部の好事家たちのおもちゃにされてしまうのである。
 その現状を打破するとなると、それはもうその時点でパンクムーブメントをもう一度起こすことと同じなので、再び最初の疑問へと立ち返ることになる。つまり、面倒なので中止。だ。
 このアルバムがここまでの勢いを保持しているのは、『新しい何か』を全員が目指していたからであり、ハードコアがナチュラルに改革の作用を備えていたからである。
 ギズム、エクスキュート、アブラダコ、ラフィンノーズ、クレイ、G-ZET。彼らの音を聴いて何かを始めた人間もいるし、何かを終わらせた人間もいるだろう。どちらにせよ、停止しなかった、という事実がハードコアの証明であり、動き続けるという運動で考えた場合の改革が、このレコードで聴けるグレートパンクである。
 めんどくせぇ、と言う前にこれを聴いてほしい。そして既に自分が改革の一部として機能しているんだとうまく錯覚しさえすれば、たった今から周りはパンク・ムーブメントなのである。これほど便利な社会参加ツールも他に無いだろう。

 

投稿者 asidru : 17:59 | コメント (11) | トラックバック

King Crimson 「Level 5」

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 久しぶりにクリムゾンでも聴こうと思い、レコード店で新譜を探した。で、コレを見つけたのでひとまず購入してみたのである。
 クリムゾンは私にとって青春であり、中学生の時に1stに出会ってからというもの、ロバート・フリップの圧倒的な狂気に魅了され、リリースされた順番に買っていったのだが、最近の作品はどうも買う気にならず、しばらく離れていたのである。
 というわけで久しぶりのクリムゾン。
 どんな進化を遂げているのかと期待に胸を膨らませながら再生すると…。
 何コレ!?
 かつての雰囲気は無くなっているわけではないのだが、圧倒的に違う。何がって、音圧が。
 クリムゾンはここにきてへヴィ・ロックすら飲み込んでしまったのだ。
 私は脱帽しつつも、ロバート・フリップがなぜこのような方向へ行ったのかを考えてみた。
 もともと、ロバート・フリップは神秘思想の人である。彼のソロ及びクリムゾン全般に共通しているのは、その並外れたオカルト的直感に基づいた音構築であり、今回のへヴィネスさについてもそのようなきっかけがどこかにあってのことなのだろう。
 桁外れの勘違いへヴィメタルと化したクリムゾン。ところどころ変拍子や奇怪なギターも入るが、今までに無いラウド&へヴィな世界を構築しているため、かつてのファンは確実に腰を抜かす筈である。
 ただ、これを聴いて思ったのは、若手のミュージシャンたちがやっているいわゆる「へヴィ」とされている音楽が、極めて外見的なものであって、内側から滲み出す類のものでは無かったということだ。クリムゾンのへヴィは本当に重い。存在の根本から重く深く設置されているため、音質だけメタルゾーンとかのエフェクターで重くしている奴らとは明らかに別格である。
 ロバート・フリップの「重さ」への着眼が、今後いかにして変質していくかに注目したい。

投稿者 asidru : 17:58 | コメント (4) | トラックバック

MELVINS 「Stoner Witch」

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 重い。
 メルヴィンズと言えば重くて遅い。
 それだけである。
 一聴して充分に呪術的な印象を受けるのであるから、これを受け入れるか拒否するかは聴き手の自由。限りなく窒息感に溢れた美しい音楽である。
 暫定の中で満足もできるし、未知の不可解に怯えることもできる。
 許容範囲内にメルヴィンズを収めるか、それとも外すか。二者択一で違う結果が用意されているわけだが、どちらにしろ頭痛の時は聴かない方が身のためだ。
 メルヴィンズを聴いて船酔いのような気分になれば、きっと未知の体験ができると思う。いわば90年代のサイケデリック。知覚の扉を開けるためのステップだと思えば、初めて聴いた時の苦痛など耐えられる筈だ。まぁ、私のようにはじめからこの音が好きな人間もいるわけだが…。
 こういったストーナー系のロックを聴くならまずここから入るといい。わりと聴きやすい部分もあるし、メルヴィンズの色もよく分かるので、かなりオススメである。
 息苦しい解放を求めるなら、このジャケを持ってレジへ。

投稿者 asidru : 20:02 | コメント (4) | トラックバック
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