THE SLUDGEについて その2


 顔の無い人間がいたとする。その人物が泣いているのか、笑っているのか、怒っているのかは客観的には分からない仕組みだ。しかし、それが確実に「生きている」のだということだけはハッキリと分かる場合がある。
 スラッヂはまさにその状態だと思う。
 情報のほとんどが得られにくい状況で、音源も入手困難。たまにその名は出されるものの、伝説として、自分ではない他人の曖昧な記憶から語られる言葉から、一体何が引き出されるというのだろう。
 この状態はTHE SLUDGEの音楽にとっても、それを好む者にとっても歯がゆいものだ。あんなに素晴らしいものが、それを欲する者に届かないという現状を何とかして好転させるには、スラッヂの演奏記録をまとめて世に送り出すしかない。

 THE SLUDGEは死んでいない。

 ここ数日の間、スラッヂの音源を聴き続けた。
 「RED CROSS」には本当に感動して、久し振りにギターで弾いてみたりもした。
 この音源を出さなかったら絶対に後悔する…。そんな気持ちがどんどん強まっていった。そして、スラッヂの音楽がまだしっかりと生きていることに気がついた。涙が出そうだった。

 スラッヂの演奏からはサイケデリックなニオイがすることがときどきあって、それは絶対に片岡さんが発しているものだと思っていたのだが、実はそれが菅原さんのものであったというのも新しい発見であった。
 特に『窓辺のアルルカン』はずっと片岡さんのギターだと思っていたものが、実は菅原さんが弾いていると聞いて驚いた。
 スラッヂの独特の酩酊感は片岡さんのナチュラルに歪んだ資質と、菅原さんの持つ深い混沌とした世界がうまく解け合わさって生まれているように思える。

 菅原さんが大学のとある部に入部したとき、隣の部室からまるでフリクションのようなとてつもない演奏が聞こえてきて、覗いてみたらそれが片岡さんの演奏であったというTHE SLUDGE結成以前のエピソードを聞いたとき、片岡さんのソリッドな音はフリクションにも通じるものであったことに気がついた。
 そして菅原さんの悪夢のようなあの詞こそが、スラッヂにサイケな香りを与えていたのだという気がしてきたのである。

 スラッジの演奏には今聴いても時代背景を一切感じさせないスタイリッシュさがある。大抵の音楽は時代の空気を余分に吸い込んでしまいがちであるのだが、スラッジに関しては周囲の空気を拒絶でもしているかのように、THE SLUDGEそのものであり続けている。
 そしてそんな性質の演奏であるからこそ、もっと世に伝播させたいと思うのだ。

投稿者:asidru 2006年01月11日 09:35

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コメント: THE SLUDGEについて その2

熱い記事できっとSLUDGEを知らない人も感動したんじゃないですか?あ、森本さんどうも。
とにかく、ゆっくりですが動き出した感じです。
すくなくともREDCROSSはスタジオ録音もライブ音源もこの世に残したいですね。自分の曲なのにもうひとつ違う何かが
この曲には入ってる気がしますから(気のせい?)。
あとは、プレスしたい奇特なスポンサーを探すだけです(笑)。

投稿者 顔無しスガワラ : 2006年01月13日 18:56

ちょっと熱くなり過ぎた感もありますが、できるだけ多くの人に知ってもらいたいのです。
再発に関してはまだまだ時間はありますので、じっくり進めて良いものを残せたら最高です。
まだこのTHE SLUDGEについてシリーズは続きますので、末永くよろしくおねがいいたします!

投稿者 森本 : 2006年01月13日 19:13

SLUDGE知らない人は...
うまく云えないけれどなにか絶対損してると思うっ!
早く音源出て欲しいけど待ってるのも好きなんで楽しみにしてますね!

投稿者 Y : 2006年01月14日 19:50

うまくまとまるまで再発を祈願しています!
スラッヂが早く聴きたいと思う人の手へ届く日が来ることを願っています。

投稿者 森本 : 2006年01月14日 22:53

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